高校生の頃、没頭した「細雪」。
でも、懲りずに、ずっと内緒で書き続けて、戦後間なしに仕上げ(昭和23年)、発表したのがこの物語でした。
友達が、先日、大阪の上本町まで(なんと細雪の舞台となったあたりではないですか!)「細雪」のお芝居を観てきたそうです。それで、また今度、芦屋の谷崎潤一郎が住んでいて、細雪の中姉ちゃんの家の舞台となった家を見学に行きましょうということになりました。
もともと文庫本では、3冊に分かれていたのですが、この本は、1冊にまとめられています。そのため、なんと!936ページまであります。
その話をしていたら、叔母が、学生時代の友達のお母さんとうわさがあったんえ~と、意味ありげに言うのです。
谷崎のことだからと、その話をずっと信じていたのですが、最近、気になって調べてみたら、何と!そのうわさが立ったのは、どうも谷崎が70歳ぐらいのころです。叔母の学生時代といえば、相手のお母さんは40歳ぐらいです。すごいなあと思ったわけですが、もう少し調べてみたら、どうもそれは信憑性のない話だということがわかってきました。
「鴨東綺譚」(永井荷風の「濹東綺譚」を真似たのかな?)という小説を書き始めたとき、ある女性をモデルにしたようです。その女性は、京都の有名な呉服の某会社の社長夫人です。そして、私の叔母の友達と同じ姓ですので、たぶん、その方だろうと思われます。
どうも谷崎が、主人公の女性の容姿に関する描写で、モデルとの関係を誤解されたようです。思うに、当時の新聞は、ゴシップ記事をいろいろ載せていたので、その女性と関係があったかのように載せられたか何かのようではないでしょうか。
そのために、その女性が、谷崎に猛烈に抗議の電話をかけ続けたようです。「先生、ひどいじゃないですか、あれでは娘たちがかわいそう」という内容だったようです。
ここにきて、私の叔母の話が出てくるわけだろうと思います。学校で、少女たちがクラスメートのお母さんのことをいろいろうわさしあったのだろうと思われます。
谷崎は、3番目の奥さん(この人が、「細雪」の中姉ちゃんこと、幸子のモデルです)といっしょに、この女性に何度も説得を試みたようですが、それでもものすごく抗議してくるので、とうとう、めんどうになって、その小説の連載は6回で打ち切って、その前に書き続けていた「鍵」をまた書き出したのだそうです。
晩年の谷崎の、京都周辺で起ったできごとでした。
谷崎が、私の実家のすぐ近所に暮らしていたときの奥さんも、この松子夫人だと思っていたのですが、年表を見てみると、ちがいました。最初の奥さんでした。
夫婦関係にごちゃごちゃがありながらも、そうなんだ、関東大事震災のあとは、夫婦で京都に避難し、仲良く近所の神社の夜店に行っていたのか、とおかしく思いました。
この神社の縁日の夜店、私も小さい頃、とても楽しみにしていた夜店です。奥さんが、かばんを落とされたという話が、昔の京都の雑誌に出ていて、それでこの話を知ったわけです。
そういう些細な地元ならではの話って、なかなかおもしろいものです。
ちなみに、谷崎の3番目の奥さん、松子夫人は、谷崎の理想の女性だったようです。足元にかしずいて仕えたいというのが、谷崎の女性への理想的なあり方だったのだそうで、松子夫人はそうさせてくれたみたい。写真で見ると、とても色っぽいかわいさのある、雰囲気の素敵な方です。
船場の昔の言葉がとても生き生きと書かれています。方言というのは、往々にして、暮らしに根ざした美しさを感じさせますが、大阪にこんな美しい言葉があったんだなと思ってしまいます。京都の方言も、昔はもっと雅でのんびりしていたはずですが・・・。
今では年寄りしか話さなくなったような、のんびりした方言の美しさは、そのうち、このせちがらい世の中ではなくなってしまいそうです。
では、しばし、「細雪」の艶々とした美しい言葉の世界に入ってみたいと思います。