異常気象だそうで、沖縄は、毎日雨が降り止まないのだそうです。
4日間、毎日天候は回復せず、空も海もグレー。
風もきつくて、白い波が立っていました。
ここは、沖縄南部太平洋側の「ギザバンダ」。バンダは、端っこという意味だそうです。
昭和20年、この海に、たくさんのアメリカの軍艦がやってきたのだそうです。
曇っていて、とても暗い感じだったので、その時の軍艦の様子が目に見えてきそうでした。
戦績を巡り、もうひとつ、心に残ったのは、韓国人慰霊の塔の矢印。
まあるく盛り上がっているのは、韓国のお墓の形ですが、その手前に見える矢印は、風に吹かれ、故郷に帰れずこの地をさまよっている韓国人たちの戦争犠牲者たちの霊に、帰って行くべき韓国の方向を指し示したものです。
本土の決戦の準備ができていなかったために、時間延ばしをし、沖縄に引きとめておく作戦が行われ、そのために、日本人の犠牲になって、多くの沖縄の人たちが亡くなっています。
5月には沖縄戦はすでに末期状態だったにもかかわらず、6月まで引き延ばし作戦が行われたために、多くの沖縄の人たちが犠牲になりました。6月の犠牲者がたいへん多いのだそうです。
そして、10歳以下の子供たちの犠牲者もたいへん多かったようです。
「大人が起こした戦争で、子供たちが大勢命を落とす、それが戦争です。これから大人になる若者が、どういう世の中を作っていくのか、それをしっかり考えていかないといけないのです。」と平和ボランティアの方々が訴えておられました。
戦争は終わっても、親やわが子を殺さざるを得なった人たちの苦しみはずっと続いています。戦争は普通の暮らしをしていた人たちの心をズタズタにしたまま、今でもまだ続いている、そういうものだということを知っておかないといけないということ。
平和の礎の上空を、何機も飛行機が飛び、爆音が響いていました。
私はその時、鳩山首相のそのことばをニュースで聞いて、そんなことできるんかなあ?と思っていたのですが、沖縄の人たちは、そのことばをすっかり信じてしまうほど、つらい、しんどい日々が続いていたんだと逆に思ってしまいました。
ひめゆり資料館前にある第三外科のあったガマの入口。
当時は、ここに梯子をかけて、上り下りしていたのだそうです。
今回、私は、軍が爆弾を置くところとして使っていたクラシンジョウというガマに入ってきましたが、軍が使っていたところは、なんて安全なガマだったことでしょう。
ひめゆりや白梅などといった女学生が看護婦として学徒動員され、多くの兵士たちが苦しんで死んでいったと言われているガマは、足もとも悪く、とても危険なところで、奥深いところでした。
以前入ったときには、その真っ暗で恐ろしいほど深く危険な洞窟の中にしばらくいたあと、やっと外に出たら、太陽の光が降り注いでいて、なんてお陽さまのありがたいことだと、それだけで幸せなんだと思ったのですが、軍が使っていたクラシンジョウガマは、平らで、まったく危なくない上に、それほど広くなくて、5つも出入り口があるので、わりと明るい光も漏れ入ってくるようなガマでした。中には、軍で身分の高い人には、個室まで与えられていたガマもあったのだそうです。
満州でもそうですが、結局、国民は振り回され、もっとも環境の悪いところに置かれ、そして、ハッと気付いた時には置き去りにされ、助けてももらえず、多くの命が奪われていったということなのだと思います。