いただいたパンがとても美味しかったので、きょうは買いに行きました。
今熊野泉涌寺のゲベッケンさんのパンです。
トマト・ベーコンのパン。以前、トマトパンを作りましたが、なるほど、ベーコンとの相性もいいものです。外はかたく、中はとてもやわらかい、まろやかなパンでした。
やはり、美味しいパンの味をしっかり覚えないとだめですね。さすがプロだというお味でした。パンやさんめぐりは大事なことだとつくづく思ったパンの味でした。
クリームパンで有名なお店のようです。
このお店、昭和22年にケーキやさんとして開店されたとか。パンやさんになったのは、昭和56年。
戦後、やっと世の中が動きだしてきた時に、ケーキやさんとは、先代さんは戦後の復興に甘い夢をいだかれたのでしょうか。
戦後間なしに、バレエがとても流行って、あちこちにバレエ教室ができ、お弟子さんが100人、200人を超えるようなところもあったようです。
戦後にそういうものをはじめようとするのは、子供たちだけではなく、中学生やもっとお姉さんたちにもたくさんいたようです。その人たちは、お金持ちのお嬢さんというのではなく、戦後は、一般庶民の娘さんたちの間にバレエが流行ったようです。
そういうと、母の姉である現在パン教室をしているおばさんが、昔、洋裁店を開いたのもこのころで、「ハロー洋裁」と名づけているのですが、母の一番年下の妹も、そのころ、小学生でバレエを習っているのです。母の姉は、妹のために、洋裁の腕をふるって、バレエの衣装を作ってあげていたのだそうです。
今まで、そんな戦後の何もないような時にどうしてバレエなんか習えてたんだろうと思っていましたが、「舞姫」を読んで、少し当時の様子がわかりました。
女性たちは戦後、世の中がちょっと動き出すや否や、華やかなものにぱっと飛びついて、動き出しているということのようです。
おばさんの「ハロー洋裁」というのも、そうですし、バレエが一般庶民の娘さんたちの間に流行したというのも、おもしろいことです。
また、戦後間なしに、母は、昭和22年に創刊された中原淳一の「ひまわり」や「それいゆ」を、洋裁をしている姉たちが講読していたので、それを一緒に見て、姉たちに中原淳一ファッションのハイカラな洋服を作ってもらったりしていたのだそうですが、一般庶民の女の人たちのこの戦後の様子を聞くと、やはり、女性たちが集まるところには活気があったのだなと思います。
戦後、昭和22年のケーキやさん。
母の話では、戦後、ハリウッド映画の「若草物語」(1949年)が、総天然色映画として日本で上映されて、女4人姉妹と母親の5人で、何度も観に行ったと言っていました。
一般庶民の人たちは、戦争が終わって、数年でけっこう楽しみもあったのでしょうか。このころの生活にちょっと関心を持ちました。