昔語り 3 ~名づけ~



 女ばかり生まれて、なかなかあと継ぎの男の子が生まれてくれなかったところへ、待望の男の子誕生。これが父のお父さんでした。両親が喜んで、「喜太郎」と名付けたのだそうです。

 たとえ一番年下であっても、明治の時代では、男の子は大事に扱われ、私の祖父は、何をするにも一番、というような育てられ方をしたようです。

 そんな祖父でしたから、たいへんなワンマンぶりでした。

 最初の妻の名前は「新」だったのですが、勝手に「子」をつけて、「新子」にしたそうです。結核で早くに亡くなり(昭和12年)、私は仏壇の写真でしかみたことのない祖母です。
 
 私が祖母として慕っていた人は、後妻にきた「静江」と呼ばれていた人でした。ずっとそういう名前だと思っていたのですが、祖母が教えてくれたのでは、親が自分につけてくれたほんとの名前は「静尾」。夫の後ろに尾っぽのように静かについていくようにという名前だったのだそうです。今だと、なんでぇ~?!となりますが、大正時代には女のあるべき生き方ということだったのでしょう。

 ところが、「静尾」では男みたいだからと、勝手に祖父が改名。祖母はずっと不満は言わなかったようですが、ぽろりと私に不満をこぼしたことがありました。

 最初の妻には「子」をつけ、のち添えには「江」。その時には、ふぅん・・・、というぐらいでしたが、ある民俗学の研究家さんの本を読んでいた時、昔の商家では身分の高さからいうと、「子」が一番で(たしかに平安時代の貴族の女性は「子」がついていました)、「江」は下、とありました。奥様が「子」、「江」は使用人に使ったという慣習があったとありました。それをみて、そういうことだったんだ・・・、と驚きました。

 祖母は、自分の人生は、まるでお手伝いみたいな扱いだったと、祖父が亡くなった後、ポツリと言っていたことがありました。

 祖母が、商売で成功し、かなりお金持ちだった祖父に嫁いで、贅沢をさせてもらったのは、人生でたった二回だけだったのだそうです。一回目は、戦前のことですが、デパートで、いい着物やなあと思って見ていたら、どういうわけか買ってくれたこと、二回目は、京都の牛肉の有名なお店「三嶋亭」ですき焼きを食べさせてくれたこと、この二回だけだったのだそうです。

 素敵な着物を買ってもらったけど、でも、祖母曰く、いつもお新さんと比べられていたって。着物を着ても、おまえは女中みたいな着方する、お新はいい着方したって。

 そんな愚痴を私は大学時代、夕方からお布団ひいて、寝る用意をしている祖母相手にいろいろ聞いていました。卒論でしんどい思いをしていたとき、祖母はいつも自分の部屋でのんびり早くから寝る用意をしているので、「いいなあ、のんびりしてて~」と話しに行くと、「何がええもんか」と言っては、昔の話をぽつぽつし始めるのです。もう祖父はすでに亡くなっていましたので。そして、おもしろいことに、祖父が亡くなると、祖母は、本名を名乗っていたのです。

 女が自分の意思を持つことが許されなかった時代、それらは案外普通のことだったのかもしれません。年を取って、自分の人生を振りかえって、やっとぽつぽつ言えただけだったようです。

 祖母は、祖父の最初の妻が結核の時、お手伝いに来ていた姪でした。

 それまでは、お針を習っていたお寺の娘さんでした。

 結核の叔母さんが亡くなるときに、自分が死んだら子供たちを頼むと言われていたそうで、自分がそこの家に入ることはそういうものだと思っていたのだそうです

 祖母が結婚するとき、男の子が3人いました。昔は妻に先立たれた夫は、当然のこととして後妻をもらうものだったようです。自分で見つけるのではなく、親戚の人たちが当たり前のようにおぜん立てをしてくれたようです。

 その際、子供が多いと後妻に入る人がたいへんなので、これも当たり前のように親戚の人が子供を減らすために、養子縁組を整えてくれるのだそうでです。

 そういえば、夏目漱石の「こころ」に出てくる「K」がそうでした。お寺の次男坊の「K」も、父親の再婚の時にお医者の家にあと取りとして養子に出されたのでした。

 私の父は三男坊でした。つまり、養子に出される対象になったわけです。親戚が世話をし、養子縁組が着々と整えられ縁組を記念して写真まで撮られていて、その写真が残っています。

 子供がいないところには、あとを継ぐ男の子を世話するというのも、昭和の初めには当たり前だったようです。8歳で母を亡くした私の父は、すぐに養子縁組を整えられたのですが、私の祖父は、着々と進められていく養子縁組の土壇場になって相手とけんかをし、縁組を解消したのだとか(おそらく手放したくなくなったのかもと言われています)。それにしても、母を亡くし、新しいお母さんがくることになり、その上養子にまで大人たちが勝手に決めていく、そんな中にいた子供って、不安だっただろうなと思います。でも、それも、こういう時代では大人たちにとっては、当たり前のことだったみたいです。

 そんなわけで、祖母がお嫁に来た時には、結婚に際しての約束とは違い、男の子が3人もいたのだそうです。

 祖母がこれも後々ぽつんと語ったのでは、子供は生んではいけないと言われたとのこと。今思うに、母親の違う子供が生まれていろいろとあっては・・・と祖父が思ったのかなと思います。でも、祖母にはこれは耐えられなかったそうで、権力者の暴君に訴えたのだそうです。子供を産みたい!とそうしたら、なんと!訴えが通り、子供を産んでもよいことになったのだとか。

 生まれてきたのは、女の子でした。私の父と妹では12歳年がちがいます。

 祖父は、初めての女の子に、「淑子」と名付けました大変珍しい名前です。「しゅくこ」というのです。きっと「淑女」になってほしいということでの命名だろうと思います。なんて上品な!子供は生んではいけないと言っていたわりには、とびっきり上品な名前です。もちろん、「子」付きです。

 祖父は、ほんとにワンマンで頑固な封建的な暴君で、たいへんな人ではありましたが、ただ、私の母は、嫁という立場で、情はある人だったと言います。

 祖母は、若くして年を取った人と結婚をしたため、30歳中頃にはすでに「おばあちゃん」と呼ばれていました。

 祖父が亡くなってからは、自分のいとこたちに旅行に連れて行ってもらったりもしていましたが、自分の意思で自由に生きたことのない人生、そういうことが当たり前だった時代に生きた人たちが大勢いたのです。

 周りの家族にはほんとに迷惑をかけていた祖父ではありましたが、ただひとつ、救われるのは、母の、情はある人だったというその言葉です・・・。(続く)