昔語り 2 ~父方の話から その1~



 お正月、実家に帰って、いろいろ聞いてきた話をもとに、父と母の昔の話を一部まとめてみます。もう忘れ去られそうな家族の記録、少しずつ残しておきます。

 まずは、父方の家の話から。
  
  父方の祖父は、商家の出で、祖祖父は河原町三条のあたりでお店を継いでいたそうです。祖祖父は、養子としてその家に入りました。明治時代、長男になると戦争に行かなくてもよかったので、子供のいない商家に養子に入ったのだそうです。

 家がお商売をしていたので、私の祖父は、小学校を出ると(祖父は上の学校に行きたかったそうですが・・・)、中京のお店に丁稚にだされ、修行を積んだそうです。当時、中京のお店というのは、格式が高く、要するに、丁稚は丁稚でも、今でいえば、ちょっといい学校に入ったみたいなもんだったようです。中京の商家での厳しい修行を終え、自分の家に戻り、父親のお店を継いだようです。

 お店は、寝具を売っていました。花嫁道具としての高級寝具を扱ったり、三条大橋近辺の旅館街だったので、旅館のお布団、わたの打ち直しなどで、繁盛したそうです。

 家族も増え、近くに土地を買って、引っ越し、当時としては大きなモダンなお店を建てたようです。2階部分が吹き抜けになっていて、2階部分に花嫁さんのおふとんなどの商品を陳列し、お客さんは下から商品を見上げるようになっていたのだそうです。

 幸い旅館街という立地条件のよさや時代の波にも乗り、商売は繁盛。丁稚さんはいなかったけど、女中さんは三人いたのだとか。

 でも、いいことばかりではありません。私の祖母は、結核で、33歳で亡くなっています。気難しい嫁ぎ先。なかなかの気苦労があったようです。

 長野県から木を運んだりして、当時としては多額のお金をかけて新しいお店と家を建てたのですが、その翌年に父のお母さんは結核のため亡くなっています。父は三男で、8歳でした。

 そんな中でも祖父のお店はますます順調に繁盛し、売っていたものの中には専売特許をとっていて、販売を独占していたものもあったのだそうです。なんとそれは、脱脂綿だったのだそうです。京都では祖父のお店しか売っていなかったので、それも大儲けの一因だったそうです。

 脱脂綿には、西洋風の制服を着た看護婦姿の女性が脱脂綿を差し出している挿絵がついていました。そこには、英語で○○COMPANYと書かれていて、昭和の初めとしてはとてもハイカラなものでした。

 家族には常に倹約が強いられていたようですが、祖父の昔の写真には、山高帽をかぶって、親しい別のお店の旦那さんと宝塚の温泉に行ったりした様子が写真に残っています。

 さて、妻を亡くしたあるじには、当時は再婚は当たり前だったようです。ただ、再婚はうまくいきませんでした。離婚の原因となったのが「ねぎとはんぺい」事件でした(これは、小さい頃からしばしば聞かされました)。

 10月の20日には、20日えびすといって、九条ねぎとはんぺいのお汁をいただくというのが習わしでした。
 九条ねぎえべっさんの笹、はんぺいが小判に見立てられ、縁起を担ぐもので、お商売をしているとその献立はとても意味のあるものだったのだろうと思われます。そういったしきたりをきちんとすることにいい加減な人のようでした。それを絶対に許せない頑固一徹のあるじとの間で大げんか。というわけで、この再婚、すぐにダメになったのだそうです。

 再再婚は、亡くなった父のお母さんが、実は、最後まで自分のお世話をしてくれていた自分の姪に子供たちを託して亡くなっていたということで、父にとってはいとこにあたるのですが、その人が新しいお母さんとして来てくれたそうです。(続く)