ぱん屋さんdeひととき 14 ~からすま京都ホテルのパン屋さん~

 
 
 からすま京都ホテルが最近、リニューアルオープンして、入口入ったところに、パン屋さんオープン。
 
 
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         京都ホテルオークラのパンが並んでいました。
 
 
              昔なじみのパイン入りドーナツ
 
 
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 オークラになる前の京都ホテル時代からのなじみのドーナツです。柔らかいパン生地にパインが入っています。昔ながらのパン・ドーナツの味がして、京都ホテルパンの名物。
 
 どんなふうにしてドーナツにパインを入れてあるんだろ?こんなに柔らかくするにはどんなふうな生地なんだろ?とか考えてしまいます。昔はそんなこと考えることもなく食べてましたが・・・。
 
 
 
              レーズンたっぷりのレーズンブレッド
 
 
 
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 京都ホテルのレーズンブレッドは昔とても美味しかったのですが、それとはちがっていました。新しいレーズンパンのようです。あまりにもレーズンが入っていて、びっくり。
 
 
 
 また、京都ホテルって、ケーキがとても美味しいのです。うれしいことにケーキもパン売り場の横に並んでいました。
 
 
 
               抹茶入りのシュークリーム
 
 
 
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  甘さ控えめで、とても美味しかったです。抹茶がとてもよく効いていて、いかにも抹茶のクリームという味でした。これは美味しい。
 
 
 パンとケーキの間には、中華料理店「桃李」のお惣菜も並んでいました。1パック
350円ぐらいでいろいろ並んでいました。こういうのって、ありがたいです。肉団子なんかだと、夕飯で食べて、少しだけ残しておくと、お弁当に入れられます。
 
 ご近所にこういうお店ができたのは、うれしいことです。
 
 
 私の小さい頃は、まだまだファミリーレストランなんてなかった時代でした。父はサラリーマンでしたから、普通の家庭だったのですが、私が小学生になったころからお給料がちょっとは上がったようで、貯金もできるゆとりがでてきたと言っていました。東京オリンピックが終わって、万博が開かれる前ぐらいで、日本も景気がよくなりだしてきたころです。
 
 そのころだったと思います。年に1回か2回、家族そろって、よそ行きの服を着て、たいそうにホテルでお食事に連れてもらいました。父は旅行には連れて行ってくれませんでしたが、これが旅行に匹敵するぐらいのおでかけでした。
 
 そのころのホテルのお食事は、今のようなフランス料理とかではなく、普通の洋食のレストランのようでした(ひょっとしたら、高級なフランス料理フルコースもあったのかもしれませんが・・・)。いつも決まって家族みんなが超ご馳走のように食べたのが海老フライでした。小学生の私にとっては、タルタルソースのついた海老フライって、ホテルで食べる超豪華な外食だったのです。
 
 ナイフとフォークで緊張しながら海老フライとライスを食べました。グランドピアノが置かれていて、夜はドレスを着た女の人がピアノを演奏していました。
 
 私は京都ホテルだったと思っていたのですが、母は、ホテルフジタだったと言います。??・・・。地下のお店でした。京都ホテルだったと思うのですが・・・。
 
 当時のホテルって、ジーンズもはいて行ってはいけないところでしたので、今とはちがう緊張感がありました。親子4人、ピアノの演奏を聞きながら、よそ行きの服を着て、緊張してナイフとフォークを動かして海老フライを食べていたなんて、ちょっと滑稽な感じもしますが、おおまじめでした。
 
 その頃、家族そろって食べに行ったところのもう1軒が、河原町三条界隈にあった「大文字」というおそばやさんでした。これもまた我が家のおでかけのひとつでした。
 
 このお店のおそばは、茶そばでした。私はいつもかやくあんかけを頼みました。京都のおうどんの味ではなく、ちょっと甘めの濃いおだしでした。それがまたとても美味しく、そのお店では、おそばは、頼んだらあっという間に出てきました。たいてい1分何秒か2分程度だったと思います。父は、いつも注文したら時計を見て、おそばが運ばれてくるまでの時間を計っていました。
 
 そして、そのおそばやさんで幼いころから行くたびに見入っていたのが、東郷青児の女の人の絵でした。普通のおそばやさんでしたが、壁にたくさんの東郷青児の絵が飾ってあって、私はいつもその絵を見るのが楽しかったのです。
 
 
 
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 当時は、河原町三条の朝日会館の壁面にも東郷青児の大きな絵がタイルで描かれていて(今は小さくなっていますが)、幼いころから東郷青児はなじみのある絵でした。
 
 
 
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 大人になってから、宇野千代東郷青児が劇的な結婚をしたということを知り、びっくりでした。こんなきれいな絵を描く人が、前の彼女と心中未遂を起こしていたようです。そして、まだ傷も生々しく、首に包帯を巻いていた東郷青児と出逢い、なんと、血まみれになっているお布団で、初めてあったその日にともに夜を過ごし、以後、その家に居ついてしまったというのが、宇野千代。それがふたりの馴れ初めだったとか。
 
 宇野千代は、その後、生活のために、東郷青児が絵を描くたびに、彼の絵を売り歩き、生活費を稼いだのだそうです。
 
 その後、いつものことながら、宇野千代は、夫の浮気のために離婚。いつもは潔くきっぱりと明るく別れ、ひとりになってから、わんわん泣いたそうですが、彼との場合だけは、いっぱい恨み事を言い巻くって別れたのだそうです。そうでないと、彼は去って行かなかったからとのことでした。
 
 数年前、東京に行ったとき、損保ジャパンの東郷青児の美術館に行きました。ずっと行ってみたかったので、わくわくして行ったのですが、思っていたより絵は少なくて、少々もの足りませんでしたが、絵はがきはたくさん買いました。
 
 東郷青児宇野千代は、晩年年取ってからばったり出会い、東郷青児のほうから、もう一度一緒に仕事をしようよと誘いがあったそうです。宇野千代の長年の秘書をしていた女性の話では、実は、宇野千代は、恋多き人だったけど、一番好きだったのは東郷青児ではなかったかということでした。再会を約束して、その約束の日、胸ときめかせて会いに行ったけど、東郷青児が来なくて、そのあと、突然亡くなったことを知ったそうです。その時ばかりは宇野千代はとても悲しがって落ち込んでしまっていたという話を、宇野千代の追悼番組で長年のお付き合いだった秘書の女性が語られているのを聞いたことがあります。
 
 毎日新聞連載の「生きていく私」の愛読者だった私は、筆者の宇野千代と、あの素敵な絵の東郷青児が結婚していたと知って、びっくりでした。年老いて、そんなふうにまたふたりの出会いがあり、「また一緒に仕事をしようよ」とふたりで作る本の計画を持ち出され、再会を約束し、胸ときめかせたなんて、宇野千代は、生涯の中で一番好きだった人からの最後のメッセージをもらえたわけで、それだけでも素敵なことです。