雑感 23 ~「二十四の瞳」のふるさと 小豆島~

  
 
           「二十四の瞳」の映画ロケ地から見える
                   小豆島の海
 
 
 
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 先週、BSのNHKの番組で、「二十四の瞳」を観ました。1954年、木下恵介監督作、高峰秀子主演の映画でした。
 
 1987年には、田中裕子主演でリメイクされたのですが、この時の映画のロケに使ったものが、映画村として残されています。http://www.24hitomi.or.jp/
 
 ただ、1987年度版のほうは、道が舗装されているところが映っていたりしたので、風情がもひとつでした。
 
 私が初めて「二十四の瞳」を観たのは、亀井光代主演のテレビドラマ(1967年10月‐1968年3月、毎日放送)でした。
 
 この時の映像は、いかにも小豆島らしい風情があり、大石先生のイメージもぴったりで、いつも楽しみにして見ていました。
 
 「二十四の瞳」にも、小豆島にも関心を持ったのも、このころからです。
 
 数年前に小豆島に行くにあたって、職場の年配の方と話をしていた時、「そりゃあ、なんといっても『二十四の瞳』は高峰秀子のがいい。あれはよかった。」と言われ、一度観てみたいと思っていました(でも、心の中では、亀井光代のがいいと思ってもいたのですが)。
 
 今回、高峰秀子のを観て、なるほどなかなかいいと思いました。風情もあり、昔の小豆島の様子が、本で描かれている通りに思いました。
 
 高峰秀子の演技ではすごいなと思ったことがありました。若い頃の大石先生を演じる時には、背筋をシャンと伸ばし、若々しく、ほっそりととてもきれいなおなご先生だったのに、20年ぐらいしてからもう一度分校に復帰した時の大石先生は、教え子が貧しさの中で亡くなったり、戦死をしたりしたこと、そして夫の戦死、戦後の辛い時期でのわが子の死などを経験し、背中が丸くなって、歩く姿勢にも足の動かし方にもほんとに年を取った感じが出ていました。
 
 この「二十四の瞳」は、小豆島での若い先生と子供たちとの温かい交流を描くとともに、反戦の映画であるともいわれています。
 
 それは、小説にも色濃く出ています。
 
 壷井栄という女性は、小豆島の醤油樽職人の娘として生まれた人です。大石先生の家は、岬から見える醤油工場の煙突のほうにあるという設定になっていますが、彼女の実家もそのあたりだったようです。
 
 岬の分校は、小豆島の東側、南のほうにあり、お醤油を作っていたところは、小豆島の東側です。そのあたりから分校までは、今でもバスが通っていますが、山道を通り、かなりの距離があります。そこを大石先生は自転車でさっそうと学校に通ってきたという設定でしょうか。行きは坂道でたいへんだったろうと思います。
 
 
                 小豆島東部のお醤油作り
 
           壷井栄のお父さんは、この樽を作っていたようです。
 
 
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                   (ヤマロク醤油 http://yama-roku.net/
 
 壷井栄の家は、蔵元倒産で生活が苦しくなる中、彼女は、文学に関心を持ち、小豆島で知り合ったのちの夫となる詩人壷井繁治と、その友人黒島伝治とともに、文学活動をします。彼らの書く作品は当時の社会を批判したプロレタリア文学でした。また、女が小説を書くということも、当時の島では受け入れてもらえないことでした。
 
 そのため、閉鎖的な小豆島の人たちから非難され、これ以上小豆島では文学ができないということで、時代の流れの中で器の小さかった小豆島を捨てる覚悟をした繁治らとともに、栄も東京へ行く決心をします(大正14年、26歳)。
 
 「二十四の瞳」に描かれた岬の人たちの閉鎖性は、こういった経験によるもののようです。
 
 東京では、林芙美子平林たい子とご近所さんで、本格的に小説家としてスタートを切ります。でも、思想弾圧があり、夫はしばしば刑務所へ。そのたびに着替えなどを持って、かけつけたのだそうです。その際、ご近所さんの林芙美子平林たい子ら女流作家たちも大いに助けてくれたのだそうです。
 
 「二十四の瞳」で同じ職場の男の先生が「赤」ということで警察に連行されたのは、大石先生が本校に移ったあとでした。大石先生もその問題になっている雑誌を持っていて、校長が大慌てで処分するひと場面がありました。
 
 子供たちのとてもいい詩が載っているのに、どうしてだめなんですか、と訴えるシーンは、おそらく昭和8年ぐらいの設定になっていると思います。昭和3年で1年生だった12人の子供たちが、6年になって本校に通ってきていましたから。
 
 昭和8年と言えば、小林多喜二が「蟹工船」などを書いて弾圧を受け、殺された年です。
 
 この頃のことを描いた小説に、石坂洋次郎の「若い人」というのもあります(現在、残念なことに絶版になってしまっています)。 
 
 「若い人」でも、女性の高校の先生が、危険思想とみなされている本を持っていて、それを新しく赴任してきた若い男性の先生がこっそり隠してあげるという場面があります。
 
 どうも日本の小説は、この昭和8年ごろを境に、本来とてもいい作品が書かれていたのに、弾圧が繰り返され、ゆがめられていったのだと思います。
 
 「二十四の瞳」の反戦思想は、その頃のことがまず描かれています。
 
 兵隊さんに憧れる教え子たちに、「米屋のほうが先生は好きだ」と言って問題になり、その後は、教えたくない軍国主義的なことを教えさせられることから教師を辞める決意をするのです。
 
 
 そして、教え子たちが戦争に駆り出され、夫も彼らも戦死。
 
 またこの作品では、小豆島のとても貧しい家の子供たちのことも描かれます。百合の花の絵が描かれたアルマイトのお弁当箱がほしいけど、買ってもらえず、買ってやると約束してくれていた母は、赤ちゃんを産んで亡くなります。貧しくて、子守もしなくてはならなくなり、学校に来させてもらえなくなった時、大石先生が松ちゃんに百合の花の絵の描かれたアルマイトのお弁当箱を買って渡してあげる話があります。
 
 その後、四国に奉公に出された松江は学校を辞めてからもずっとその百合の花のお弁当箱を大事に持っていて、大人になって再会してからそれを大石先生にみせるという場面、これは木下恵介監督の映画にはカットされていましたが・・・。
 
 私は、実は、小学生のとき、この百合の花の絵のお弁当箱というのに憧れたのです。 
 
 
 小豆島は、とても静かな島です。「二十四の瞳」で有名になった小豆島は、実は壷井栄にとってはとてもつらい思い出のある、居場所のない故郷だったようです。
 
 「二十四の瞳」が書かれたのは、昭和27年。戦争が終わって7年経って、はじめて反戦内容をも含んだ作品として世に発表できたようです。
 
http://www.24hitomi.or.jp/tuboisakae/(映画ロケ地にある壷井栄の文学館)
 
 この作品を読んで、小学校の先生になりたいと思った人も多かったのではないかと思います。大人になって読み返しても、とてもいい作品でした。
 
 また、小豆島は、結核で余命いくばくもない俳人尾崎放哉(ほうさい)が、晩年移り住んだところでもあります。
 
 窓を開けると瀬戸内海の海が見えるお寺を終の棲家として選んだそうです。
 
 
            海が少し見える小さい窓一つもつ(放哉)
 
            障子あけて置く海も暮れ来る(放哉)
 
 
          小豆島第五十八番札所西光寺奥の院南郷庵
 
 
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 島の西側にあります。訪れた時、窓を開けてみました。残念ながら、今では家が建ち並び、まったく海は見えませんでした。
 
 「咳をしてもひとり」という句が有名です。5・7・5ではなく、型破りな俳句です。孤独のうちに美しい島で生涯を閉じ、このお寺の墓地に眠っています。
 
 この放哉も、同じく型破りな句を作った山頭火も、壷井栄や壷井繁治などと、同じ時代の人です。
 
 
    肉がやせてくる太い骨である
 
    いれものがない両手でうける
 
 
 
           島の西側 西光寺へ行くまでにある漁港
 
 
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                 エンジェル・ロード
 
             引潮の時には4つの島が道でつながります。
             その間に恋人と歩くと、恋が叶うのだそうです。
 
             デートスポットになってます。
 
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               満潮のときには、こんなふうに。
 
 
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 島の東側のホテルの横には海に面したパターゴルフ場もあり、1日何時間でも使えて1000円。とても気持ちのいい時間も過ごせました。だ~~れもいないところの広々とした芝生と穏やかな海。何時間でもしていたいような気分になります。
 
 また、ホテルの自転車も車も乗り放題。自転車を借りてお醤油の工場を見て回ったり、つくだ煮やさんを見て回ったりしました。
 
 島の真ん中にはオリーブ畑。くじゃく園などもあります。
 
 紅葉のシーズンは、島の真ん中にある寒霞渓がにぎわい、ロープーウェイに乗るのに3時間もかかるそうですが、私が訪れた10月の連休は閑古鳥がないていました。どこもかも空いていて、小豆島ひとり占め気分になれます。
 
 島の西側の海からは温泉につかりながら台形の形をした屋島が見えます。平家物語に思いを馳せながら温泉でひととき、でした。