京都deお散歩 10 ~如月忌(西本願寺)~

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 2月7日。きょうは九条武子さんのご命日、如月忌でした。西本願寺でその法要が行われ、行ってみました。


 
 九条武子さんは、大正時代の三美人のひとりと言われています。お雛様みたいなお顔で、なだらかな昔風のお姿です。
 
 生まれは京都。西本願寺門主さんの次女として、明治20年に生まれています。生母は側室の方(士族出身)。正妻さんは、からだが弱かったので、門主さんの子供たちは側室さんを母に生まれています。当時はそういう時代だったのです。

 大正天皇の皇后貞明皇后は、武子さんの兄嫁の妹、夫の姉にあたりますので、九条家と大谷家と皇室は血縁関係が濃厚なのです。


 そんな家柄に生まれ、歌や絵画には有名な先生から手ほどきを受けていたこともあり、とても才能のある方でした。絵画は、同じく京都に住む上村松園に習っていたのですから、一流の手ほどきを受けて、なかなか素晴らしい絵が残っています。

 武子さんは、明治42年、兄嫁の弟と22歳で結婚し、華々しくヨーロッパに新婚旅行に行くのですが、・・・。とんでもないことに結婚したばかりの夫が、わずか半年でイギリスに行ってしまって、なんと10年間もほったらかしにされてしまうのです。

 その上、そのあとすぐに、小さいときから一緒に暮らし、もっとも信頼してきた兄嫁をなくします。兄嫁は貞明皇后の姉にあたるわけですが、その方の念願が、京都に女子大学を創設することでした。その意思を受け継いで、今度は武子さんが、なかなか「うん」と言ってくれない西本願寺側や国と苦戦を強いられることになり、何度も悔し涙を流しながら、大学は無理だったのですが、専門学校として義姉の夢を実現させます(現・京都女子大学の前身である京都女子専門学校)。

 義姉が仏教婦人会の長でもあったので、その任務も引き受けることになり、多忙を極めるようになります。そんな生活の中、夫は、イギリスに行ったまま、ぜんぜん帰国して来ないのです。そのつらい思いを「金鈴」という歌集に収めています。

  いくとせをわれにはうとき人ながら
  秋風ふけば恋しかりける

  ものうさに二日こもりてつくろはず
  我が黒髪もかなしかりけり

  ほととぎすわれにひとりの君ありと
  いうふことさへもわすれて聞きぬ

  あけくれをわびて暮らせば部屋のうち
  春寒うして梅もかをらず

  家をすて吾をもすてん御心か
  吾のみ捨てむ御たくみかや

 歌を作ることで気持ちを慰めていたのでしょうけど、とてもさびしかったのだろうと思われます。

 そんな武子さんは、柳原白蓮という女性ととても仲良くなるのです。白蓮もまた、武子さんと同じく、佐々木信綱という歌の先生のお弟子さんでした。

 この白蓮も大正三美人のひとり。ところが、二人はぜんぜんちがう生きかたをすることになります。

 白蓮も高貴な家柄のお姫さんだったのですが、九州の成り金の元に嫁がせらてしまうのです。でも、彼女は、演劇の脚本を書いたときに一緒に仕事をすることになった学生と恋に陥って、家を逃げ出すのです。このとき、世間を騒がせる事件を起こします。このあたりのことは、「白蓮れんれん」という林真理子氏の小説にくわしいので、ぜひどうぞ。

 当時は姦通罪というのがまだ残っていた時代です。そんな時代に武子さんは、白蓮が隠れ住んでいる家に、食べ物や着物など運び、いろいろ助けているのです。

 林真理子が「白蓮れんれん」でもはっきり書いていますが、どうもふたりはお互いに、恋する男性のことを打ち明けていたようです。

 やはり「金鈴」という歌集に気になる歌が残っています。

  さながらにさばきの鐘をきくごとし
  三百余日罪にくらせば

  罪業の闇とこしへに深うして
  聖者も我をすて給ふか

  おもひみればおのれてふものいましむと
  人のつくりし掟(おきて)なりけり

  掟ゆゑならわしゆゑと幾たびか
  あきらめがたきあきらめもする

  ゆくといふ子ゆかじとする子あらそひに
  うつくしき夢いつかさめける

  智恵の子は大盤石(おおばんじゃく)の下じきに
  ならむとせしをのがれしと笑ふ

  わづらはし朝(あした)の人はあざみゆきぬ
  夕べの人はたたへて過ぎぬ

  何ごとも人間の子のまよひかや
  月は久遠(くおん)のつめたき光

 でも、この歌のように、結局は武子さんも相手の方も勇気を出そうとはしなかったようで、「うつくしき夢いつかさめける」だったみたいです。

 このあたりのことも、林真理子の「白蓮れんれん」に詳しく描かれていますので、ぜひ。

 さて、10年経って、やっと夫が帰ってきて、うれしそうにお迎えにも行ったようです。でも、その後、あまりしっかりしてない甘えん坊の夫のことは、特にうれしそうに歌に詠んでいるわけではありません。

 このころから、武子さんは、社会活動に精を出すようになるのです。

 関東大震災では焼けだされ、火の荒れ狂う中を着の身着のままで逃げたようです。そして、その後は、自分も被災者なのに、被災者のために身を粉にして支援活動をしているのです。

 また、東京で診療所を作り、貧しい人たちの住んでいるところをお医者さんと一緒に訪ね歩き、援助を惜しまず、一生懸命尽くします。でも、きれいな奥さまがやって来たって、貧しい人たちからは冷たい目で見られるのです。

 武子さんは、演劇を上演することを思いつき、「洛北の秋」という脚本を自ら書き、上演します。その収益をすべて貧しい人たちのために使うということをしたために、とうとう貧しい人たちから信頼されるようになるのです。

 入口におむつが干されていて、そこをくぐって家の中に入ったので、しずくに濡れてしまったという話も残っています。

 また、貧しい人たちの住んでいるところに車が入り込んできて、子供が交通事故にあったことがあり、そのあと、立て札をたてたそうです。「子供がいますので、静かに通ってください」と入口に書き、出口には、「ありがとうございます」と書いたために、ドライバーたちも以後、気をつけたのだそうです。

 そして、また、貧しい人たちが仕事ができるようにと、託児所まで作って、自らも保母さんになってしまうのです!

 昭和2年の暮れから、風邪をひきながらも診療所を中心に社会活動を続け、1月には、過労のため、高熱を出してしまい、とうとう倒れてしまいます。入院することになりました。その時、歯が痛み、歯を抜いたことが原因で、恐ろしい敗血症になってしまうのです。

 小さい頃、父が、歯を抜いたら命にかかわることがあるとよく言っていました。祖父が「九条さんは歯抜いて死なはった」とよく言っていたからだったそうです。

 2月7日、お坊さまの法話を聞き、お坊さまから「仏さまとして生まれ変わっていらっしゃい」と言われて、「はい」と答え、そのあと、お念仏(亡くなるときに、枕元で唱えるので、枕経と言われます)をお坊さまたちと一緒に唱え、唱え終わったときに、息を引き取られたのだそうです。真宗のお坊さんにこのことを話したら、その亡くなり方は、真宗のもっとも理想とされる亡くなり方なのですとのことでした。

 臨終に際し、側近の人に対して、「誰でも一度はかうなるのだから、決して悲しむのではない。私は戦つて戦つて戦ひつくしたのだから」(佐佐木信綱著「麗人九条武子」)と言って亡くなったそうです。女子大設立に際しては、本願寺の保守勢力と戦い、社会事業においてもものの考え方のちがう人たちと戦い、そしてまた金策にも戦い、17歳の時に迎えた最愛の父親の死から亡くなるまでは、満たされない寂しさと戦い、生涯戦い尽くした人生でした。そして、最後は、きちんとした「型」に自分を当てはめて幕を閉じた人のようです。

 そんな九条武子さんは、お美しくて、おやさしくて、上品で、と言われるのですが、どうも日常生活ではけっこうてきぱきバリバリ働く、しっかりした夫人だったようです。人前とうちとでは声もちがうし、服装もちがうという話もあったりしますが、だからこそ、診療所を作ったり、貧しい人のためにいっぱいボランティアをしたり、資金を脚本を書いて稼いだり、託児所まで作ったりできたのだろうと思います。

 九条武子さんといえば、耐えて耐えて人のためだけに生きた聖人として語られますが、晩年はきっとかなり強くてきつくてきりりとした人だったんだろうと思います。

 与謝野晶子は、九条武子さんのことが大好きだったようです。きっと、単にお上品なお姫さま、奥さまではなく、武子さんの芯の強さも見抜いていたんだと思うのです。

 自分に負わされたものを、白蓮のように、ぽいっと捨てることはできず、確かに与えられた境遇の中で耐えて耐えて生きた人だと思いますが、私は武子さんの正直さとまっすぐさがとても好きです。

 きょうは西本願寺の如月忌の法要で、武子さんの生涯を映画化したものも観ました。とても貴重な映画です。昭和5年に、素人さんの中から、特に武子さんと風貌や身なりがそっくりな人を選んで、映画が撮られたのだそうです。「無憂華」という武子さんの本と同じタイトルの無声映画です。この映画は、阿弥陀堂で上映されました。

 原作 九条武子、脚色がなんと!白蓮さんでした。

 
 最後は、白洲のところでおぜんざいと甘酒が接待されました。法要が行われた御影堂もとても寒くて冷たかったので、やっと温まりました。

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