雑感 97 「アンのゆりかご ~村岡花子の生涯~」

 
 
 
  「アンのゆりかご ~村岡花子の生涯~」を読みました。
 
 
 
 
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 NHKの「花子とアン」の原作本とはいえ、「アンのゆりかご~村岡花子の生涯~」の内容はドラマとはまったくちがうものでした。
 
 この本は、明治に生まれ、大正・昭和の初めに青春時代、働き盛りの時代を過ごした女性たちの歴史のまっただなかに生きた村岡花子という一人の女性がたどった人生を描いたものです。そして、この本は、日本の女性史の総まとめみたいな本と言っても過言ではなく、今まで女性史を学んできた中で知った多くの著名な女性たちの名前が次々に登場していて、そのことに驚きました。
 
 早くから英米文学に親しみ、当時としてはたいへん先進的なキリスト教教育を小さい頃から受けていた彼女の周りには、実に多くの著名な女性たちがたくさんおり、その多様さには驚くものがありました。
 
 学生時代を歌人柳原白蓮とともに親密に過ごし、白蓮に英文学を紹介するということを楽しんでしていたのも花子でした。また白蓮からは佐々木信綱氏を紹介され、門下生にしてもらったというもの、彼女が本格的な文学の世界に触れていたということの現われでもありました。
 
 また、芥川龍之介が、自分の知性と対等に話し合える唯一の女性として、晩年憧れたと言われ、堀辰雄の「聖家族」のモデルにもなった女流歌人松村みね子片山廣子)女史とも私生活面でかなり深いお付き合いをしていたようで、何かにつけ新しい生活へと導いてもらっていたようです。
 
女性の参政権を勝ち取るための運動を若き市川房枝さんとも一緒にしたり、のちには、産児制限を唱えて各国を訪問し、講演をしたマーガレット・サンガー女史が来日したおりの通訳は村岡花子だったそうです。
 
また、ヘレン・ケラーが3度目の来日の際に通訳を引き受けたのも彼女であり、さまざまな社会運動に結婚してからも積極的に取り組んでいました。
 
文学者では、宇野千代林芙美子など、彼女の周りには有名な作家がたくさんいました。
 
そんな中で、戦争中にカナダ人婦人宣教師から預かった「赤毛のアン」の原本を大事に戦火から守り、英語が禁じられていた時代に、こっそりと翻訳し続けたのが「赤毛のアン」であったということでした。
 
彼女は自らに課せられた社会的使命を、家庭の中で安心して読める小中高校生向きの本を日本でも作ることでした。家庭文学と呼んでいたようです。そのために、外国の本をたくさん翻訳し、日本に広めたのです。
小さい頃から受けたキリスト教を通しての西洋の教育のために、彼女は大正・昭和の初めの女性たちの中で、積極的に女性史を動かしていった人たちのうちのひとりだったようです。
 
また、恋愛においても、NHKのドラマでは、妻子ある人との恋愛をあきらめ、奥さんが亡くなってから結婚したというように描いていますが、本当はいわゆる熱烈な奪略婚だったそうです。甘い甘いふたりのラブレターがたくさん残っているようです。
 
結婚後もずっと夫は彼女の仕事に敬意を払っていたようで、彼女はかなり過酷な仕事をたくさんこなしています。
 
今の時代ならまだしも、一昔もふた昔も前に自分の仕事をしっかりとやり遂げた女性であり、激動の女性史の真っ只中に生きた人だったことを初めて知りました。
 
中学生の頃、「赤毛のアン」に没頭し、一生懸命読み、おとなりの席の親友と文通を交わすのに、「腹心の友」などという言葉を使っていた私でした。
 
アンの作者モンゴメリーはかなり不運な身の上の女性だったということを知ったのは別の本を読んでからであり、大人になってからのことでした。そのことを書いた著者は、アンの物語には女性の生きかたとしてかなりの限界があることを述べていました。アンの夫になるギルバートは、成績ではアンより上であったり、アンが学校の先生であるのに対し、ギルバートは医者であったりと、女性を男性よりの「下」に描いていると述べていました。
 
たしかに、今の時代からみたら、そういう限界はあると思いました。
 
しかし、村岡花子は、モンゴメリーの作品に描かれたモンゴメリーの人生観に共感するものがあったようです。
 
人生を生きて行く上で、必ずしも自分だけを主張はできないものであり、何らかのことで常に周りの人との折り合いもつけてやっていかないといけない、モンゴメリーの描く世界はそういう折り合いの世界でもあるというものでした。アンがせっかく得た社会的地位も自分を育ててくれた母親代わりの女性の老後の世話をするために捨てたりしたのも、そういうことだというとらえ方をしていたようでした。
 
これほど村岡花子という人が女性史の真っ只中にいて、これほどの活躍をしていたにも関わらず、彼女の名前がそれほど表に残らず、少女向きの作品「赤毛のアン」の翻訳者ということでだけ知られていたというのは、不思議なことですが、目立って表に出ない翻訳者であったことや、折り合いをつけてやってきた縁の下の力持ち的な生き方のためかもしれません。あるいはまた、多くの少年少女向けの文学作品が数多く翻訳され、親しまれ、日本でも生まれたにもかかわらず、そういうものがいまだにおとなの文学ほど重要視されていないためかもしれません。
 
林芙美子は彼女に「花のいのちはみじかくて」の有名な詩の一節を送っていたようです。
 
  風も吹くなり
  雲も光るなり
生きてゐる幸福(しあわせ)は
波間の鷗(かもめ)のごとく
縹渺(ひょうびょう)とただよい
 
生きてゐる幸福は
あなたも知ってゐる
私もよく知ってゐる
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり