二十四の瞳

小豆島では、骨折した大石先生が、病院に通う時に乗っていたバスをモデルにした形のものが走っているのだとか。左上はオリーブの木

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先日、NHKで放映された『二十四の瞳』は、久しぶりにいいドラマが観られたなあと思うほど、よかったです。土村芳さんの大石先生が、素朴で自然な感じがして、なかなかの好演だったと思うのです。

 

https://www.nhk.jp/g/blog/r77za7q1pc/

 

二十四の瞳』は小学校高学年ぐらいの時に本で読みました。二百十日という言葉は、この本で知りました。ゆりの花の絵が描かれたアルマイトのお弁当箱というのも素敵に思いました。そして、学校の先生というのは素敵なんだなと思ったのも、この小説からでした。

 

小学校の高学年のころだったか、亀井光代さん主演で『二十四の瞳』が放映されていて、それを毎回熱心に観ていたので本を読んだのかもしれません。

 

小豆島という島も初めて知り、その後も小豆島が大好きです。きっとこの影響だと思います。

 

壺井栄という作家が、プロレタリア文学運動に関わっていた作家であることは、大人になってから知りました。

 

子供の頃には気づいてなかったのですが、『二十四の瞳』が、戦争を痛烈に批判した文学作品であったことに、その後読み直して気づき、衝撃を受けました。そうだったのか、と。

 

壺井栄という作家に関心を持ち、いろいろ調べました。小豆島でも、彼女のことが展示されているところにも行きました。

 

なぜ文学仲間であった恋人と、小豆島から東京へ逃げたのか。

 

小さな田舎の島では、大正、昭和と、女が作家になることはとても生きづらく、限界を感じていたからであったことを知りました。

 

東京へ出て、新婚生活は、プロレタリア文学仲間と近所に暮らし、文学に打ち込もうとしても、自由にものが言えない時代。夫は何度も警察に捕まり、彼女は警察に着替えを運んだり、ばかりだったようです。

 

やっと戦争が終わり、自由にものが言えて書ける時代を迎え、7年間という時を経て、それまでの時代を振り返り、『二十四の瞳』を書きあげたようでした。

 

教え子を戦争に送るための教育をすることなど、とてもできない、ということで教師を退いた大石先生。国策にはとうてい抗うことなどできる時代ではなかったからです。

 

大石先生の夫は戦死、初めて教えた子供たちからも戦死者が次々と出ます。幼い娘も終戦後の空腹で青柿を取ろうとして木に登り、落下。幼くして亡くなります。

 

母親が亡くなり、学校をやめさせられて奉公に出た女の子。奉公に出て家族を助けようとして、結核になって、島に帰ってきた女の子。

 

悲しいことがいくつもいくつも重なったのも、当時の貧しい人々の暮らしや戦争のせいです。そういうことを、壺井栄という人は、ふるさとの小豆島を舞台に、綴らずにはいられなかったんだろうと思われます。

 

戦争が終わって、7年経って、初めてそういったことが書ける時代が訪れたということなのかもしれません。

 

今回、NHKでは、8月8日にこのドラマが放映されました。戦争批判のドラマとして作られた構成になっていました。

 

しかし、壺井栄の作品は、戦争や貧しさは、作品の中で大石先生の悲しみとして描かれていきます。このようなひとりの自立した女の人の暮らしの中に、貧しさや戦争への悲しみを描いた作品は、当時としては初めてのものだったのだろうと思います。

 

貧しさと戦争、そして、見逃せないのは、小さな貧しい島で、大石先生という若い女性が、戦前に自転車に洋装という自立した女性として描かれていたことだと思います。もちろん、大人たちは受け入れてくれず、いろいろつらい思いもします。子供たちだけが彼女を受け入れて支えとなりました。

 

戦争は、そのひとりの自立した女性の颯爽とした生き方をも変え、多くの人の命を奪う。逆らうこともできない強硬な国策が打ち寄せた時代が悲しみを深めていきました。

 

小豆島は決してステキに描かれているわけでもないのに、小豆島をステキに思わせたのは、大石先生という子供たちと精一杯一緒に生きた若い女性のステキさなのだろうと思います。

 

もうすっかり昔話のようになってしまっているのかと思っていた小説が、またドラマ化されて、土村芳さんが爽やかに好演されたことが印象的でした。

 

悲しいことばかり続き、すっかり年を取り、再度岬の学校に就職した大石先生。昔の子供たちのことが重なって、すぐ涙が出てきてしまい、泣きみそ先生と呼ばれてしまいます。

 

土村芳さんの姿があまりにも年老いて頼りなげに描かれすぎていたかなあ?ちょっと残念だったかも。