雑感 134 ~もしも利休があなたを招いたら~


 今朝は、久しぶりにスキッと起きられました。ようやく体調が戻ってきたようです。

 エアコンもこの一週間は使っていません。窓から涼しい風が入ってきます。

 そんな中で、ちょっと急いで読まなければならない本があって、読みました。次、読ませて~~と息子に言われ、母にも言われ・・・。母は、待ちきれずに一昨日、オープンしたばかりの「丸善」(ニュースに何度も流れていましたが、檸檬を持ってやってくる人もいて、今、長いブランクのあとに、やっと丸善が戻ってきたのです)に行って、レジの長い列を、並んで並んで買ってきたようです。



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 この本は、高熱を出す前日に、息子たちと大阪の梅田で待ち合わせをするとき、梅田の紀伊國屋の本屋さんで、と言われたので、そこで見つけたものです。

 ちょうどその日の朝、終戦記念日ということで、裏千家の千玄室さんが特攻隊員としての体験を話しておられて、自分の後ろには、多くの亡くなった戦友がおり、自分が死ぬまで自分の戦争は終わっていない、だから世界に出かけて行って、お茶を通して世界平和を伝えていくのを使命と思っているということで、その体験談を話されていました。

 人と人とがわかり合うのに、お茶は外国の人の心にも通じたという話でした。

 今までハワイ文化になにやら憧れ、よく考えてみたら、自国の文化についてはあまりよく知らない、そんな自分に気がつきました。

 そんな時、本屋さんで見かけたのが、この本でした。パラパラと見てみたら、筆者は、東京のマンションで武者小路千家の後継者としてお茶を教えているという千宗屋さん。まだ40歳になられたかどうかの、若い方です。

 マンションにお茶室を作って教えているということで、やや異端視されておられるようなのですが、お茶の精神においては、本道をいっていて、保守的だと書いておられました。

 すっかり生活が変わった現代の暮らしの中で、お茶の本来の精神を伝えるひとつの手段として、この本を書かれたようです。

 現代の日本人である私たちには、日本の文化はすっかり異文化になってしまいました。暮らしは変われど、人と人との関係はなんら変わらない、だからこそ、お茶を通してのもてなしは本質的に変わるものではないということでした。

 間単にいえば、ほんとうはひとりでお茶を楽しむというのは、茶道では良しとはされていないようですが(手抜きしたりもしますし、なにより相手あってのおもてなしですから)、日常生活の中に常日頃から、むしろ簡単にお茶をたてて楽しむという非日常を組み入れることで、違和感をなくしていくし、何より、独りでお茶をたてて飲むという行為そのものが、非日常的空間の中において、自分自身を見つめる場になるということでした。

 お茶の席は、自分のできる限りの相手への思いやりから、精一杯おもてなしをする気持ちを表す場であり、非日常的空間を作ることで、日常で気づかなくなってしまっていることを気づいたり、親しいものとの人間関係をより深めたり、自己を見つめるコミュニティーのようです。

 親しいもの同士であるからこそ、自慢するために器を用意したりもしなくていいわけで、自分が招いた方をどれだけ一生懸命おもてなししてさしあげるかが大事だということでした。

 ふっと思い出したのが、「赤毛のアン」の話。アンが始めて正式なお茶会に誘われたとき、その家の夫人が、アンのために、家の中でもっとも高価な紅茶茶碗で出してくれたことにアンが感激していたシーンです。子ども扱いされず、きちんと扱われたことに感激し、美味しいお菓子にも夫人の自分をもてなす心を感じ、認めてもらった喜びを家に帰って興奮して語っていました。

 高価なお茶碗を出すのは、決して見せびらかしたり、自慢したりするためではなく、自分の暮らしの中で、もっともいいおもてなしをあなたにしますという気持ちの表れだということです。

 お茶は、儀式に従わないといけないと思っていましたが、利休は、人を真似てはいけないことを厳しく教えていたのだそうです。お茶は、あくまでも自分があなたをどうもてなすか、その気持ちを表すものなので、ひとりひとりお茶のもてなしはちがうものなのだそうです。だから、先生がそうするから、そうするものだと勘違いしてはいけないのだそうです。

 姿勢を正して正座すること、それは、丹田に力を入れる姿勢です。肉体の自由をあえて奪うことで、精神を研ぎ澄ますのだそうです。

 歩くときも、しっかり丹田に力を入れて歩く。

 そういう精神の研ぎ澄ましの中で、「自分にとってのお茶とは何か」、「自分自身がどうあるべきか」を考える。それを形にして確かめていくのがお茶の本来の意味なのではとありました。

また、「伝統」というのは、明治時代にこの字に書き換えられたのだけれども、もともとは、仏教での言葉で、「伝燈」だったそうです。ともし火を消さないようにするためには、常に新しい油を注がなくてはいけません。新しい油を注いでこそ、時代を超えて続いていくもののようです。「油断」というのは、このことからきている言葉だそうです。

 新しく油を注ぎ足しながら、伝統を踏まえた「いまの時代のお茶」。

 招いた人へのもてなしの気持ちを心を込めて作り上げる場の中で、自分とは何かも見えてくる。人と人とをつなぎ、今の時代、大切な「場」を、「ケ(日常)」の中に、ほんのひととき、「ハレ(非日常)」を設けることで作り上げる。

 お茶の精神は、仏教の精神とも深い関係があります。日本文化のDNAを少しでも理解していきたいと思いました。

 さて、わが家の庭には、きょうはピンクのハイビスカス。


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 38度、39度の極暑で葉っぱをすっかり枯らし、花をまったくつけなくなってしまっていた真っ赤なハイビスカスも昨日からようやく開花。明日は3つほど花を咲かせてくれそうです。


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 よくぞ、ここまで葉っぱが戻ってくれたと感動しています。7月の終わりからというもの、枝だけになってしまっていたのです。

 病み上がりの私は、この生きる力に満ちた真っ赤なハイビスカスにとても励まされます。大事に毎日お花を楽しもうと思います。

 それと、今回、寝込んで気づいたのですが、毎日毎日、ラインの着信音ガが鳴り響いていました。寝ているのに、どれだけ多くの人と話したことでしょう。

 ラインって、無料で、便利ですね!

 先ほども、夫の故郷イギリスに帰った友達からも写真が送られてきました(なんて美しい・・)。

 今日から行くはずだったのに、私が病気のためキャンセルした旅行先からも、一緒に行くはずだった友達から駅弁の写真が送られてきます(美味しそう・・・)

 また別の友達は、夫の単身赴任先(なんと!白浜!!)から、お魚がすごく美味しい!!おすしが美味しい!!と言っては写真を送ってきます。

 ・・・、んんん、・・・。一応、形式的には「お身体いかが?」とはありますが、あまり心配されてない・・・。聞いて聞いて、見て見て。

 でも、それも、病床であっても、退屈せず、とても楽しかったです