京都deお散歩 7 ~五條天神さん(西洞院松原)~

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 以前、家の前からタクシーを拾い、すぐ近くの五条天神さんの前を通った時、運転手さんが、「ここが、行きはよいよい、帰りはこわいの、『通りゃんせ』の舞台になったところですよ。このあたりは昔は木がうっそうと茂って、夕方になったら真っ暗になるような恐い場所だったんですよ。」と教えてくれはりました。そうなんだぁと思って、家に帰ってから、インターネットなどで調べてみたのですが、「通りゃんせ」の歌の舞台は別のところになっていたりして、どこにも五条天神さんの名前は出ていませんでした。???

 松原通りなのに、どうして五条なのかというと、もともとこの通りが五条通りで、豊臣秀吉の京の町の整備計画で、五条通りがふた筋南に移動したのだとか。この地は、松がたくさん植えられていたために、松原通りと言われたそうです。神社には杜が付きもの。運転手さんの話の通り、かなりうっそうとした森に囲まれた神社だったようです。そのうっそうとした森の中に、広大な境内、その中に壮大な社殿があった、ということです。

 また、この神社は、なんと牛若丸と弁慶が初めて出会う前に、弁慶が訪れた神社だと「義経記(ぎけいき)」という本に出ています。

 「義経記」によれば、いい刀を宝物として持ちたかった弁慶は、何でも千は集めないと値打ちがないと思い、お金もないし、人から奪うしかない、千本の刀を奪おうと決心し、999本刀を奪うのです。そして、最後の1本になったとき、五条天神さんに出向いて、「よい刀を千本奪わせてください」とお願いに行くのですが、そのあと、笛を吹き、とてもいい刀を持っている若者に出会ったとなっています。

 その話を読んで、これは近所のことだし、観に行かないといけないと思って、仕事前の早朝、ちょっと早めに家を出て、観に行きました。

 昔は広い境内、壮大な社殿というのをネットで見たので、とりあえず、時間にゆとりを持って出かけたのですが、……。

 写真をご覧ください。お隣はマンションに密接、社殿の裏はもうそこがマンション。表の塀は途中で切れて、隣のマンションになっていました。

 五条天神さんは、京の都造営の際、桓武天皇が、空海に命じて、大和の国から、雷神・水神の天神を招くために建てさせた神社だそうです。そんなに古い古い由緒のある神社で、マンションに挟まれたような京都の街中に、こんなふうに1000年以上も前の平安京の名残りが残っているというのも、歴史を身近かに感じさせられた、朝のひとときでした。

 
   京の五条の橋の上、
   大の男の弁慶は
   長い薙刀ふりあげて、
   牛若めがけて切りかかる。

   牛若丸は飛び退いて、
   持った扇を投げつけて、
   来い来い来いと欄干の
   上へあがって手を叩く。

   前やうしろや右左、
   ここと思えば又あちら、
   燕のような早業に、
   鬼の弁慶あやまった。


という歌は、私の父や母の世代はよく知っています。そして、五条大橋のたもとの、最近できた牛若ひろばには、牛若・弁慶の像もおかれています。

 でも、おや?「義経記」はちがっています。

 「義経記」では、6月17日に弁慶は牛若にやっつけられ、残念ながら刀を奪うことができなかったので、翌18日、清水の観音さんの縁日にいけば、きっとまたあの男に出会えるだろうと思い、出かけていったそうです。そうしたら、美しい声でお経をあげるのが聞こえてきたそうで、そっとお堂の中をのぞくと、そこには、清水で籠っている女装した牛若がいたのだそうです。

 清水寺の例の有名な「舞台」で、大勢の観音さんお参りの人たちに騒がれながら、二人は切り合いをすることになるのですが、その時に、牛若が弁慶を再びやっつけて、以後弁慶が家来になるというふうになっています。

 ところが、謡曲の「橋弁慶」では、全然内容がちがうようです。千人切りのうわさを聞いた弁慶が(要するに、辻斬りです)、その相手を懲らしめようと出向いて行くというふうになっています。つまり、人殺しをしているのは牛若のほうです。

 でも、これにはそれなりの理由があるようです。牛若は、父義朝の13回忌の供養のために、平家の千人斬りを思い立って、平家の拠点である六波羅に近い五条橋で夜な夜な辻斬りを続け、あと一人にまでこぎつけたところに弁慶が現れるということが、そのもとにあったようです。

 それなら中世であれば、仇討ちだし、武士ならそういう話が生まれても何にも不思議はないなと思うのです。

 切り合いの舞台は五条橋になっています。五条橋は、今の五条ではなく、松原にかかる橋です。

 そのあたりは、元々墓地だったようです。六波羅には、幽霊飴の話もあり、かたい飴を売っています。それもその名残のようです。清盛のいる六波羅の近く、人通りのないような場所で、牛若は平家の武士を待ち伏せていたようです。
 
 二通りのお話があるのですが、どちらもそれなりに理由のある話のようです。

 ただ、おもしろいのは、明治になって、お伽噺作家の巌谷小波(いわやさざなみ)という人が、「日本昔噺」(全24編)というシリーズを出したそうで、そのお話「牛若丸」(1896年7月)が以後、子供たちに伝わることになり、明治政府が小学校唱歌として小学校1年生の許可書に載せた歌が、日本中に広がったようです。

 おそらく、牛若のお話は、時代によって、意図するところがいろいろ変っていったのだろうなと思います。義経をかっこよく描きたかった「義経記」では、牛若が笛を吹いて、かっこよく登場し、平家物語では物足りなかった義経ファンの要望に応えて、女装もする美しき稚児出身の素敵な牛若として、物語を膨らませていったのでしょう。

 「船弁慶」や「弁慶物語」では、親の13回忌に、平家の武士を辻斬りすることで、義経を親の仇を討ち、平家打倒をもくろむ中性の武士として、描かれているのだろうと思います。

 また、明治時代には、小学生に歌を歌わせて、悪いことをした弁慶を懲らしめ、心変わりさせた英雄として描きたかったのだろうなと思うのです。

 そう思うと、牛若と弁慶の話も、実際はどうだったのかわかりませんが、時代の要望に応えて、いろいろお話が作り出されていったようで、おもしろいものです。

 今、五条大橋のたもとに、最近作られた牛若ひろばに移転された牛若・弁慶の像は、まん丸く太った童の京人形のようなかわいい子供姿の昭和の牛若・弁慶の像です。笛を持ってひらりと飛んでいる牛若に、ちょっと太めの刀を持った童べの弁慶クン。このかわいさも、時代の要求する姿なのでしょうか。
 
 牛若の母・常盤御前については、「ぱんdeおしゃべり」22をぜひご覧ください。