ぱんdeおしゃべり ~ハロー洋裁~

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ハロー洋裁

 
 「ハロー洋裁」というのは、洋裁の学校に通っていた母の姉たちが、京都の大宮松原に戦後まもなく開いた洋裁店の名前です。戦争で一家は家財産、多くのものを失いました。

 母の父のお店のみすや針は戦争中、お国のために差し出さないといけなくなり、お店は立ち行かない状態になりました。母の父は、だいぶ年をとっていたこともあり、戦争には行かなくてすんだようです。母の父は工業繊維大学の前身の学校に行っていたこともあり、その知識や腕を見込まれて、戦争中は親戚の会社に雇ってもらい、収入を得ていたようです。また、戦前から英語にも興味を持ち、英会話ができたこともあり、戦後間もなくその会社に進駐軍がやって来た時には通訳をしていたのだそうです。

 父親の収入だけではシベリアに抑留されていた兄を除いての一家6人の生活はたいへんで、二人の妹たちの私学の学費、習い事などの教育費は、もっぱらその上の二人の姉たちの収入が頼りにされていたようです。

 母は戦争が終わったときには12歳、下の妹は8歳でした。母のすぐ上の姉もまだそのころには女学生であり、京都の私学、華頂の裁縫科に通っていました。そこで母の姉は裁縫を習い、のちには一番上の姉とともに、洋裁を習いに行って、基礎を学びました。

 一番上の姉さんはちょっと不器用なとこもあり、まじめにコツコツ洋裁を習っていたようですが、下の姉さんは、要領がよく、いつも上の姉さんの習ってきたことを家で勝手にささっと予習して、授業当日はよくさぼったそうです。それなのに器用で容量がよかったのに、上の姉さんより褒めてもらって帰ってくるので、上の姉さんはよく機嫌が悪かったのだそうです。

 さて、この二人の姉さんたちによって、自宅を使って、洋裁店が開かれました。このころ、上の姉さんのほうは、出征前ににわか結婚をした戸籍ばかりの夫が戦争で亡くなり、未亡人になっていました。そういう若い女性がたくさんいたようで、私の中学時代の担任の、いつも和服を着た女の先生も、その一人だったようです。
 
 当時は進駐軍が街を歩いていた時代でもありました。戦争に負けたとはいえ、仕事を失って絶望感に打ちひしがれている男たちとはちがい、若い娘たちの生き抜くためのエネルギーはその比ではなかったのかもしれません。洋裁店を開くと言っても、服地など売ってるわけもない、物のない時代でした。そこで家にある古着を使って、縫い直し、戦後間もない時代とはいえ、器用に雑誌に出ているような服さえ作っていたようで、近所の人たちにも洋裁を教えていたようです。

 戦争が終わってすぐに、中原淳一の「それいゆ」や「ひまわり」という雑誌が若い女性たちのために作られたのですが、母の家にも毎回、「それいゆ」や「ひまわり」が届いたようです。姉妹四人にとっては、戦後の暗い時代も、中原淳一が提唱する生活を豊かにする方法は魅力的なものであり、母は、娘時代には、姉たちに、その雑誌に載っているファッションをもとに、洋服を作ってもらうのが楽しみだったのだそうです。

 戦後まもなく、母は女学校に、妹は小学校に通い、姉たちの収入で、いろいろな習い事や勉強のための塾にも通っていたようです。母は何が習いたいかと聞かれ、お習字を選んだようですが、母の妹はバレエを選んだそうです。

 母の妹は姉妹の中では一番したい放題にしていたようですが、バレエを習い、絵が上手だったようです。バレエの服はもちろん、姉たちが作るわけです。母の妹はすくすく大きくなり、姉妹の中では最も体格がよくなりました。

 母も手先が器用です。母の父は、若いころから洋裁に興味を持ち、昭和の初めにドイツからミシンまで取り寄せたぐらいの人で、洋裁ばかりではなく、編み物も上手だったそうです。母もまた編み物が得意で、結婚後はずっと編み物教室を開いておりました。

 そういうわけで、母は、学校の裁縫の時間に、上手に宿題をしていったところ、「これはお姉さんにしてもらったのだろう」と言われ、怒られたのだそうです。そうではないのに、おとなしいほうだった母は、そうではないというのも面倒で、怒られたままだったのだそうです。その話を家ですると、母親代わりのようだった一番上の姉は、先生に文句を言ってきてやると、たいそうな剣幕だったようです。

 四人姉妹というのは、けんかもするようですが、なかなかいいものでもあったようです。戦争が終わってすぐ、アメリカから総天然色映画「若草物語」がやってきたそうで、この映画を母親と四人の姉妹は何度も何度も観に行ったのだそうです。

 その映画は、1945年にアカデミー賞を受賞しています。ジューン・アリソンがジョー、エリザベス・テイラーがエイミーの役をしていて、戦後間なしにアメリカで作られた映画です。
中原淳一のファッション雑誌に魅せられ、総天然色映画「若草物語」を何度も観に行くというようなことは、戦後としてはとても明るいものを感じます。