ぱんdeおしゃべり 19 ~角食パン~

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美味しいパンを焼きましょう!

角食パン

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 角食パンは、専用の型で、八分目ぐらいまで膨らんだときに、ふたを閉めます。このタイミングを逃さないように気をつけてください。
 
 ホットサンド用の器具に食パンを入れて、中にいろいろなものをはさみ、ホットサンドを楽しんでみては?カレーを入れてもとてもおいしい。


ぱんdeおしゃべり******************************************************

 昔、子供のころ、食パンの耳を3~4cmぐらいに切って、オーブンで焼いたり、フライパンで焼いたりして、バターとお砂糖で味つけしたのがおやつでした。これはとてもおいしいものでした。

 子供のころのおやつでは、裏のお寺によくポンのおじさんと言っていた人が来ていて、お米とお砂糖を持っていくと、ポン菓子にしてくれました。これも楽しみで、母にくっついてよくお米を持っていきました。

 ろばのパンやさんというのも、楽しい歌を鳴らして通っていました。ほんとうにろばを連れていたのかどうか、というと、自転車だったように思います。

 昭和30年代、子供のころの思い出には、今では考えられないようなこともありました。たとえば、ねずみの話。ちょっと気持ちの悪い話ですが・・・。

 昔はどこの家にもねずみがよく出ました。そのねずみを金網の仕掛けで捕って、裏通りのどぶにつけるのです。死んだらそのねずみを近くの幼稚園に持っていきます。それと引き換えにお金がもらえるのです。昭和30年代には、衛生的な生活をということで、各都道府県が、それぞれの地域に、ねずみを集める場所を指定して、庶民にねずみ退治をさせていたのです。残酷な話ですが、それは当時としてはぜんぜん残酷な感じではなくて、私は小さい頃、母に手をつないでもらって、遊具の置いてある「ねずみ幼稚園」(と、呼んでいました)に行けるのが、とてもうれしかったのです。また、幼稚園が死んだねずみの収集場所であったなんて、妙な時代でした。

 家の裏通りに大きなお寺がありました。京都はお寺の多いところです。小さい通りにも何十軒もの小さいお寺や大きいお寺がありました。そのお寺が遊び場所で、いつもそこで遊んでいました。雨が降ると、家中の傘を持って、お寺に行きます。傘をみんな開いて家を作るのです。傘で作った家に入って、雨降りの楽しい遊びになっていました。

 また、昔は、土管工事がされていなかったので、きつい雨が降ると、どぶの水があふれ出して、道のいたるところが子供の腰のあたりまで浸水するのです。お風呂に入るとよく大雨ごっこをしていました。

 「ドラえもん」のジャイアンたちがよく登って遊んでいる土管。あれは、ちょうど私の子供時代の風景でした。裏のお寺にも土管がちょうどジャイアンたちが遊んでいる空き地みたいに積まれていて、そこが遊び場所になっていました。下水工事があちこちで行われていたのです。

 また、下水工事のあとは、土の道がアスファルトで舗装されました。回覧版で、「これからはたき火はできません」というお知らせが来たのを覚えています。大人たちは、ごみをお風呂を焚くときや「どんどん」と呼んでいたたき火で燃やしていたので、ちょっとこれは・・・、と困った通知だったのです。アスファルト、という言葉も、小さい私にはなんだかとても新しい感じのするものでした。

 また家の裏のお寺には、いつも捨て猫や捨て犬がいました。生まれたばかりの、まだ目の開いてない猫が何匹か段ボール箱に入れて捨てられたりしていました。犬の場合は、大きいのが捨てられると、保険所から車に乗って網で捕りに来るのです。

 お寺の裏には行かないように、子取りが来るから、といつも言われていました。子取りというのは、誘拐犯人のことです。当時、ごみやさんが、大きなかごを背中に背負ってごみを拾っていたので、私はてっきり子取りも大きなかごを背中に背負っているのだとばかり思っていました。

 お寺の隅っこには、宝物を埋めたりもしました。

 夕方には、ひとりで毬つきを一生懸命しました。「芋買いました。人参買いました。山椒買いました。しいたけ買いました。牛蒡買いました。ろうそく買いました。七草買いました。・・・」といった歌に合わせて、毬つきをします。

 お寺のいろいろなものが遊びの対象になりました。子供はいろいろな遊びを考えるものです。今のような遊具などない時代でした。

 お寺では野球もしました。自転車も乗りました。池にかかった太鼓橋を自転車で勢いつけてジェットコースターみたいに走り下りるのはとてもスリルのある遊びでした。高い石段からも飛び降りる練習を何度もしました。

 歌もよく歌いました。「青い目のにんぎょう」「赤い靴」といった異国への思いをはせるような抒情的な歌をいつも歌っていました。「青い目をしたおにんぎょは、アメリカ生まれのセルロイド」という歌詞のように、セルロイドのお人形も持っていました。セルロイドは、その後は火に弱くて危ないということで、使われなくなりました。

 父方の叔母さんの友達に、大金持ちのお嬢さんがいました。その人の持ち物だったようですが、舶来のオルガンが私の家にやってきました。お下がりのそのオルガンを、音楽が大好きだった私は、毎日毎日弾きました。足踏みオルガンです。舶来だったから、きっといい音がしたと思います。木製のオルガンでした。

 また、フラフープが大流行りで、道でいつもしていましたが、これは腸ねん転を起こすということで、発売が禁じられ、できなくなりました。

 流行ったものに、「だっこちゃん」というビニールの空気を膨らませる黒人のお人形がありました。これも大流行りで、近所のお店に並んで買いに連れてもらいました。

 りかちゃんはまだなくて、昭和40年代初めの私たちが小学生だったころは、タミーちゃんでした。タミーちゃんは、もともとはアメリカ製だったのですが、そのうちに、日本製が出るようになりました。

 学校でする女の子の遊びは、おじゃみ(お手玉)、竹返し、ガラスのおはじき、リリアン、ビーズ、毬つき、ゴム飛びがありました。私はどれもみんな得意でした。ゴム飛びはかなり高いところまで飛びました。

 男の子は、メンコ、虫取り。夏にはランニングシャツに、網を持って走り回っているのが男の子でした。蝉、蝶々、とんぼ、蓑虫、毛虫、あめんぼう、ザリガニ、げんごろう、いろいろなものを私も捕まえました。

 どこだったのか覚えていないのですが、馬を走らせるために囲いがしてあるところだったのですが、その囲いの中は、モンシロチョウ、モンキチョウがいっぱい飛んでいて、不思議な空間でした。

 昭和30年代、小さい頃、サーカスがやってきました。一度も連れて行ってもらったことはなかったのですが、岡崎に出るまでの白川の近くに象が置かれている空き地があり、サーカスがくると、それを毎日見に連れてもらっていました。サーカスは、岡崎公園にでも来ていたのでしょうか。

 サーカスはさらわれた人がしているんだと、そのころは大人たちが妙なことを子供に聞かせたりしてました。私の近辺だけではなく、飛騨のほうでも、「子供がおそまで外であすぶとサーカスに売られる」と親が子供に行ったのだそうです。だから、子供ながらにサーカスには哀しいイメージを持っていした。どうしてそんな話があったのかはわかりませんが、そういえば、ピノキオもサーカスに売られました。西洋ではそういう話があったのでしょうか。サーカスというのは、昔はどことなく哀愁のある見世物小屋だったので、そんな話が生まれてきたのかもしれません。

 サーカス

     中原中也

       『山羊の歌』より

 幾時代かがありまして
 茶色い戦争がありました

 幾時代かがありまして
 冬は疾風吹きました

 幾時代かがありまして
 今夜此処でのひと盛り
 今夜此処でのひと盛り

 サーカス小屋は高い梁
 そこに一つのブランコだ
 見えるともないブランコだ

 頭倒(さか)さに手を垂れて
 汚れた木綿の屋根のもと
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 それの近くの白い灯が
 安値(やす)いリボンと息を吐き

 観客様はみな鰯
 咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)
 夜は劫々(こうこう)と更けまする
 落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジア
 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

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【角食パン】2斤

  強力粉    350g
  イースト     7g
  砂糖      17.5g
  塩        7g
  スキムミルク  17.5g
  ショートニング 17.5g
  水      245g

^貅“酵40分。
■瓦弔吠割。丸める。
ベンチタイム 20分
だ型 2つに丸めたものを型に入れる。
セ転紊家酵 35~40分。
180~190度で35分。型の八分目まで膨らんだところでふたをする。