ぱんdeおしゃべり 8 ~バナナとくるみのパン~

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美味しいパンを焼きましょう!8

バナナとくるみのパン

 ぱんdeおしゃべり******************************************************

    さっちゃんはね
    バナナが大好きほんとはね
    だけどちっちゃいから
    バナナを半分しか食べられないの
    かわいそうね
    さっちゃん

 昔、台湾バナナは、バナナの皮についた菌がお腹いたを起こすということで、子供たちはあまり食べさせてもらえなかったのです。私が小さいころも、バナナは祖父だけが食べる果物でした。そのほかには、桃も、葡萄もお腹を壊すからということで、祖父だけの果物でした。

 私の父方の祖父は、1900年生まれの明治人です。前回で紹介した粟田小学校を卒業生しています。祖父は勉強が大好きだったのですが、中学校へ行かせてもらえるのは、よっぽど勉強することに理解のある裕福なおうちの子供だけだったようです。

 小学校を卒業すると、祖父は、中京区のわた(綿)やさんに丁稚奉公に出ました。わたやさんというのはおふとんを作るお店です。昔はおふとんがぺしゃんこになると、中に入っているわたを打ち直して、ふわふわにしてからまた新しく作り直すのです。

 祖父は、中京育ちということをたいへん誇りに思っていました。京都では、中京のお店で丁稚をしてお店を持つというのは、誇れることだったのです。中京の商家は丁稚のしつけが厳しくて、そのために中京で丁稚をしていたといえば、信頼されたからです。

 成人して、のれん分けをしてもらい、祖父は中京区の河原町三条に小さなお店を持ちました。河原町三条は、三条大橋のすぐ近くです。そのために、昔から旅館がたくさんありました。祖父のお店はそのおかげで大繁盛し、昭和12年には三条大橋から東に少し行ったところに、今までのお店より少し大きい新しいお店を建て、引っ越しました。祖父の建てた新しいお店は、二階建てでしたが、高い大屋根を作ったために、当時としてはとても背の高い建物だったそうです。表の大通りから裏の通りまで続いている、まさにうなぎの寝床の京都の家でした。

 何を思ったのか、祖父は、コンクリートの地下室まで作っています。でも、これは失敗。地下にコンクリートだと、湿気がひどくて使いものになりません。それでも戦争中は防空壕に、私が小さかったときには、大きな台風が来た時に避難するところになっていました。昔の台風はとても怖くて、看板や屋根瓦も空を飛びます。1961年の第二室戸台風のときには、この湿気がひどくて、水がぽとぽとと落ちてくるコンクリートの地下室に、一家7人でこもったことを覚えています。

 昔の商家は、いろいろと家の中に粋な工夫を凝らしたようです。家の中に太鼓橋まで作った人もいます。祖父は、お座敷と中庭に手をかけました。お座敷の天井は、きめの細かい板目を組み合わせた合天井になっています。大工の棟梁が腕によりをかけて作ったそうで、今でもなかなかいい天井です。ガラス戸には、ダイアモンド硝子という、今ではもう作られていないガラスが使われています。ダイアモンドのように、きらきら光っています。古いおうちを訪れると、今でも残っているところがあります。

 お店の看板には、屋号と、角隠しをした花嫁衣装の女性が三つ指をついている絵が描かれています。お嫁入りの高級なおふとんも扱うお店でもありました。私が生まれたときには、真綿を入れた真っ赤なおふとんを祖父が作ってくれたのだそうです。おふとんやさんの孫ならではの話です。

 京都への修学旅行が流行るようになると、ますます祖父のお店は繁盛しました。三条大橋や中京区の旅館が修学旅行生のためにおふとんをたくさん注文してくれるからです。おふとんがぺしゃんこになると、わたを打ち直して、また新しく作り直したりもするのです。

 祖父のお店は繁盛し、お店には丁稚どんやお松どん、お竹どん、お梅どんといった女中さんもいました。昔は、女中さんはみんな「松竹梅」で呼ばれたそうです。丁稚どんは、「末きっとん」とか呼ばれるのです。

 祖父はよく温泉旅行にも出かけたようで、最近、昔の写真が何枚も見つかりました、和服にマントのようなコートを着て、山高帽をかぶっている旦那さんがふたりと、日本髪を結ってこぎれいな着物を着た女性がふたり、温泉旅館の前で写真に写っていました。「これ、だれ?」と女性を指さすと、「ああ、これ、女中」と父が言っていました。そうなのか、旦那衆たちは宝塚や有馬の温泉に行くときには、女中さんを連れて行くのか(?)、と思ったものです。

 また、祖父は、自分が学校に行かせてもらえなかったものだから、4人の子供たちには大学まで行かせたいと思ったようです。教育熱心な親でもありました。

 戦争前、お金がどんどん儲かるので、隣の土地が売りに出た時、それを買ったらどうかと息子たちが言ったそうですが、祖父は当時植民地だった東南アジアのほうの銀行にお金を預けたそうです。当時はお金はそういうところの銀行に預ける、というのが流行っていたのです。

ところが戦争が終わったときには銀行は封鎖され、一銭も戻ってこなくなったのだそうです。一般庶民はまさか戦争に負けるなんて思っていなかったのでしょう。土地を買っておけばよかったようですね。ここが祖父の計算ミス。

 わたやさんも高度成長期に入ると、スーパーで安い寝具が売られるようになり、まさに栄枯盛衰。

 お商売はその時々の時代とともに、うまくヒットさせれば大儲けできるし、時代が変わると急に下降して行く、なかなかおもしろそうで、せつないもののようです。

 さて、今の時代、どんなお商売をいたしましょう。美味しそうなパンが載っている、ささやかでおしゃれな本を作ったりなんかして…。という夢を見ます。

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バナナが食べきれなくて、傷みそう…、というときに、このパンを作ります。簡単に作れるパンケーキなのでおやつにもってこいです。

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【バナナとくるみのパン】

    強力粉          150g
    ベーキングパウダー     3g
    砂糖            75g
    塩              1g
    バター           60g
    卵             60g(大1個)
    牛乳            35g
    バナナ(正味)      120g
    レモン汁         小さじ2
    むきくるみ         35g
(少し炒めておいて、細かく刻んでおく)

.丱淵覆鬟侫ークで粗めにつぶす。
∈重釮糧称未肇譽皀鷭舛魏辰┐討茲混ぜ、15分ほどおく。
K⇔て器で、バターをクリーム状に練り、残りの砂糖と塩を加えてよくすり混ぜる。
ね颪鬚茲溶きほぐして、少しずつ加え、混ぜ合わせる。
ナ瓦肇戞璽ングパウダーをふるいにかけて混ぜ、木じゃくしで切るように軽く合わせる。
Φ軻?箸弔屬靴織丱淵覆鮑ぜ合わせる。
Ш戮く刻んだくるみを加え、全体にまんべんなく混ぜる。
┘轡隋璽肇縫鵐阿鯏匹辰洞力粉を軽くふった型に入れて、180度のオーブンに入れ、25分焼く。