京都deお散歩 103 ~馬町空襲の地~

 
 
 京都は空襲を免れた地と思われがちですが、実は、昭和20年に、5回の空襲を受けています。
 
昭和20(1945)年
 1月16日 東山区馬町(東山空襲)
 3月19日  右京区春日
 4月16日  右京区太秦
 5月11日  上京区京都御所
 6月26日  上京区出水(西陣空襲)
 
 
 朝、通勤途中にこんな石碑を見つけました。
 
 
 
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 これは、五条坂を少し南に下がった渋谷通り、元・修道小学校の跡に建った京都市立白河総合支援学校東山分校の校門を入ったところに作られた石碑です。
 
 今年で空襲の被害を受けて69年。2014年1月16日に、空襲を受けたことを残すための石碑が作られたのだそうです。
 
 調べてみると、こんな記事がありました。
 
 
  死者 41人  重軽傷 56人  家屋破壊 141戸 
 昭和20(1945)年1月16日午後11時23分頃、京都市東山区馬町(渋谷通東大路)東入付近に突然、米軍機から爆弾が投下された。寒い冬の深夜で多くの人々は眠っていた上、京都市では初めての空襲体験だったので、人々は飛び起きたものの、とっさには、何が起こったのか分からず、戸外に出て破壊された家々と火の手を見て、ことの重大さに気が付いたと言う。
 
 この空襲があまり知られていないのは、報道規制がとられたため、新聞には載ったものの、被害は「ごく軽微」となっていたそうです。
 
 また、西陣空襲は、市内では最も大きなものだったようです(死者 50人 重傷  66人)

 
 そういえば、父が幼い妹を連れて、蹴上(けあげ)まで草取りに行っていたとき、上空をB29が飛んできて、追われて逃げた、ものすごく恐ろしかったと言っていたことがありました。京都上空にもB29が飛んでいたというのを不思議な気持ちで聞いていたことがありました。
 
 京都は、実は、原爆投下の第一候補地だったということも聞いています。アメリカは、文化を大事にして、京都は空襲しなかったというのはまったくのうそで、日本人の心に最も打撃を与える地として京都を第一候補にあげていたのだとか。
 
 当日、京都上空を通り過ぎたとき、曇り空で、投下できず、そのまま広島へと飛んでいったのだとか。
 
 原爆を落とす候補地の条件としては、人が大勢住んでいる街であり、あまり空襲を受けていず、原爆の被害がどの程度のものか、よくわかるところだったのだそうです。要するに、「実験」だったということです。それで、投下直後から、被害状況を調査するために、アメリカの調査隊が広島を調べに来ていたのだそうですね。
 
 こういう話を知ると、ほんとに恐ろしいです。戦争というのは、そういうものです。そこで苦しむ人々の様子もまた調査の対象、「実験」の対象だったのでしょう。
 
 たまたま京都は曇り空だったために免れたとはいえ、もし、京都に落ちていたら、私も被爆2世となっていたわけです。そう思うと、広島で起こったこともものすごく身近に感じられ、恐ろしさが他人事ではなく、実感を持って感じられてきます。
 
 平和憲法もいつまで続くのか、だんだんと不安定になってくる情勢のもと、このような石碑が作られ、この道を通るたびに、「空襲」ということばを見てしまいます。