雑感 32 ~二百十日~

 
 
     ミニ薔薇が毎日いくつも咲きます。この夏、ほんとによく咲いてくれました。
 
 
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  9月1日は、二百十日二百十日のころに台風が来るなんて、昔のようです。
 
 幼いころ、台風がくると、大人たちがなんやらあわただしく動き出し、母はお菓子を買ってきたりして、袋に詰めたりしてくれます。
 
 子供心に、台風って、ちょっとうきうきしたりもしました。
 
 第二室戸台風がきたときなんか、それはそれはものめずらしいことが起こりました。
 
 ごうごうと音がし、祖父母の住む母屋のほうが家がしっかりしているので、みんなそこに集まりました。母屋のほうは、祖父が昭和12年に家を建てた時、鉄筋コンクリートの小さな地下室も作ったのだそうですが、普段はその扉は閉められていました。そして、大きな台風が来たときだけ、そこが開けられるのです(戦争中は防空壕にもなっていたようです)。
 
 ものすごい音がしていたとき、みんなで地下室に入ったことを覚えています。コンクリート扉のついた棚があり、そこには昔のものがいろいろ入れられていました。
 
 地下室の入口に戻ると、ものすごい暴風の音。ところがしばらくすると、静かになったのです。「今、台風の目が通ってるんや」と父が言いました。
 
 幼い私は、家の屋根の上を、台風の大きな大きな「目」が通っているんだと思いこんでしまい、その「目」を想像していました。漫画のような大きな大きなひとつ目です。
 
 台風が通り過ぎた翌日、裏のお寺には、大きなどこかの看板が飛んできていました。道には瓦やいろいろなものが落ちていました。ほんとに大きな台風でした。
 
 1961年9月16日のことだったそうです。二百十日、二百二十日のころには、昔は大きな台風が来て、そして、秋になったようです。
 
 ヘルマン・ヘッセの本に、「庭仕事の愉しみ」という本があります。ヘッセは、庭仕事が好きで、晩年は作品を書いている時間以外は、庭仕事に打ち込んで、過ごしたのだそうです。
 
 その本を読んでいたら、ヘッセの「九月」という詩が紹介されていました。
 
 庭仕事が好きな人らしい詩です。
 
 
       九月 
            ヘルマン・ヘッセ
 
    庭は悲しんでいる
    冷たく花々の中へ雨が降る。
    夏はひそかに身震いする
    己の終末を迎えて。
 
    黄金色の葉がひとひらひとひら
    高いニセアカシアの木からしたたり落ちる。
    夏はいぶかしげに力なく微笑む
    死んでゆく庭の夢の中で。
 
    まだしばらくバラのところに
    夏は立ち止まっているが 休息にあこがれている。
    ゆっくりと夏は閉じる
    大きな くたびれた目を。
 
 
 うちのベランダには、まだまだ毎日ミニ薔薇の花が咲いているので、とても身近に感じました。
 
 台風が通り過ぎると、また季節も少し動いて、ベランダの花も模様替えになりそうです。
 
 しだいに弱っていき、大きなくたびれた目をバラの花のもとでゆっくり閉じる夏を感じるなんて、おもしろい季節のとらえ方だと思いました。庭いじりをしているからこその詩です。
 
 うちのベランダのミニ薔薇にも、そのうち、弱り果て、休息を求めた夏がしばらくとどまって、目を閉じていくのかも。
 
 相変わらず毎朝花を咲かせるハイビスカスにも、疲れた夏がしばらく安息を求めてとどまるのかもしれません。