押入れから冬のものを出してきて
晩秋の陽射しの中
たくさん干しました。
押入れを開けると、夏に乾燥させて入れておいたラベンダーの匂いがふわ~っと流れてきました。
もうだいぶ経つのに、まだまだラベンダーの匂いが立ち込めています。気持ちのいいものです。
きょうは久しぶりのいいお天気。小春日和のような暖かな陽射しがベランダにさし込んできます。
ラベンダーの匂いを含んだ毛布やシートなどを、いっぱい干しました。いよいよ冬。そろそろ毛布やムートンにからだを温めてほしい季節になりました。
干している間、テレビを観ていたら、フランク・ミュラーの時計を紹介する番組がありました。
とても手の出る価格ではありませんが、フランク・ミュラーの話を聞いていて、考えさせられるところが多いにありました。
彼は時計との出逢いを、「奇跡」だったと言っていました。小さいころから電化製品が壊れると、どうして壊れたのか確かめるために、分解しては組み立てていた少年時代だったそうです。
お父さんがスイス人、お母さんがイタリア人。
そんな彼が、ある時、時計の中をのぞく機会に巡り合い、時計の中をのぞいてみると、小さな小さな機械がいくつもいくつもコチコチ動いていて、なんて美しいんだ、と感動したのだそうです。その出逢いを彼は「奇跡」と呼ぶのです。
3年かかる時計やさんの学校を彼はたった1年で終了し、その後は、腕を磨き、立派な時計を修理するだけの技術を磨いていったそうです。
彼が作る時計は、今までの常識を覆すようなものです。
時計の数字がばらばらに並んでいるとか、いつも12時しか指していない時計とか、数字の間隔がまちまちだったりとか。
ところが、そのひとつひとつに、彼の哲学があるのです。
数字がばらばらに並んでいる時計は、7時から8時に移るときに、「時は飛ぶ」のです。時は順番に従って動くのではなく、「飛ぶもの」という発想です。
また、本来2時のところに5時がきていても、それでいいんだという考えもあるようです。
2時に5時のことをしてもいいんだということです。それは、常識にとらわれた時間に縛られることはないという哲学です。
また、いつも12時を指している時計は、横についている小さなボタンを押すと、今の時間は知らせてはくれるのだけど、でも、また12時に戻ります。
何時かは必要な時だけ知ればいいもので、楽しい時間を過ごすには、何時かなんて知らなくていいという発想です。
また、おもしろかったのは、数字の間隔がまちまちな時計。
7時から8時の間隔は長いのですが、そこから12時ごろまではとても間隔が短いのです。そして、12時から2時まではまた間隔が長い、といった具合になっています。
これは、家族と朝食を食べる時間帯は、ゆっくり時間が流れ、仕事をしている間は短いのです。そして、お昼は長い。楽しい時間はゆっくり流れるように、数字の間隔が長く、早く終わってほしい時間帯は短いのだそうです。
これはとてもおもしろい発想だと思いました。数字がそんなふうな間隔になっていると、確かに仕事をしている時間は一日のうちでは短いように感じるし、楽しい時間帯は長いように感じます。
うらやましいと思ったのは、彼が、時計の中を覗き、その機械たちを「美しい」と感動したり、時計の世界に魅力を感じ、時というものを大切に感じ、人生を前向きにとらえて生きているということです。
季節を楽しむ、四季の時計もありました。
毎日の生活の中で、いつも時間は順番に流れるし、その数字に追われて生活しています。それを時々苦痛にも感じることがありました。仕事を退職したあとも、雇われたくないと思うのは、実はそこのところがありました。
退職したら、自分で時間を好きなように使えるような仕事ってないだろうかと考えるのですが(そんないいこと、なかなかないでしょうけど)、時間に縛られないような暮らしができたらどれほどいいだろうかと思っていました。
仕事をする時間帯は数字の間隔を短くし、楽しい時間帯は長くする、そして、四季を楽しめる時計を想像しながら暮らせないものでしょうか。
これからの冬、どんなふうに暮らそうか。
私は冬は今まで好きではありませんでした。でも、じっくり物事を考えたりするのには、外へ出るには億劫になる、この厳しい孤独な季節が一番いいのかもしれません。これからは、冬、早く終われ、と思わないで、冬の時間もほかの時間と同じような間隔を与えて過ごそうかな。
フランク・ミュラー氏は、四季の時計は、どの季節も楽しく過ごしてほしいという気持ちで考えたと話していました。美しいものを自分の仕事にした人の、人生に対して前向きで健康的な発想なのだなと思いました。