雑感 1 ~赤いきんぎょのゆかたの記憶~

 
赤いきんぎょのゆかたの記憶 
 
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夏が来て、祇園祭の時期になると、小さい頃はよくゆかたを着ていたのを思い出します。母の実家が大宮松原にあり、ちょうどそのあたりを祇園祭の「あとの祭り」(24日)のお神輿が通ったので、小さい頃には市電の通る大宮通りに面した母の実家に行き、ゆかたを着て、家の前に置かれている床几に座り、いとこたちとお神輿の行列を見ました。母の実家はいわゆる京町屋の民家そのものでした。
 
 父方の祖母が着物を縫っていたせいか、小さい頃はよくゆかたを作ってもらっていたように思います。
 
 一番古いゆかたの記憶は2歳の時。
 
弟がちょうど祇園祭のあとの祭りの日に生まれ、その時母が入院している熊野の産婦人科の病院に、私は赤いきんぎょのゆかたを着て母に会いに行ったのを覚えているのです。
 
 おそらく父と一緒だったのでしょうけれど、私の記憶にあるのは、病院のベッドと私の赤いきんぎょのゆかただけ。
 
 きっと赤いきんぎょのゆかたを着せてもらったのが、相当うれしかったのだと思います。その記憶がずっと映像的に残っています。だれの顔も映らず、病院のベッドのお蒲団にのっかかろうとしている小さな子供の赤いきんぎょのゆかたです。
 
 きんぎょというのは、昔は童謡にもなったほど、子供たちにはなじみのあるかわいい生き物だったし、童謡のようなイメージで「赤いべべ着たかわいいきんぎょ」と思っていたのかもしれません。
 
 室生犀星という人は、かなり変わった小説を書く人だ思いました。赤いきんぎょの話が実におもしろいのです。
 
 「火の魚」というNHKでドラマ化された元の小説は、室生犀星のものです。この「火の魚」もきんぎょのことなのです。
 
 その小説が載っている講談社学芸文庫に一緒に納められていた作品に「蜜のあわれ」という話があります。それは、赤いきんぎょと老作家の実に「蜜」のようなお話です。まるで年の若い若いホステスさんのような、真っ赤でおなかがぼってりしているかわいい金魚が、「おじさま」と呼ぶ老作家のお世話になっており、老作家はそのかわいいチャーミングなきんぎょのお世話を実にまめにしているのです。ときどきちょっと官能的なところもある話をふたりはするところもあります。老人ときんぎょのなかなかユニークな小説です。
 
 「火の魚」というのも、原作では、「燃え尽きて海に突っ込んで、自ら死に果てる」、そういう昔つきあっていた女性のことを表しているのだそうです。
 
 きんぎょはほんとうはとても獰猛で、共食いだってします。もともとは鮒が祖先で、中国で品種改良がされ、日本に来てからも、人間の欲望がどんどん姿・形を変えさせていった生き物であるらしい。
 
 そんなきんぎょに、「赤いべべ着たかわいいきんぎょ お目めを覚ませばごちそうするぞ」と謡わせ、子供たちにとっても、とてもかわいい生き物になっていきました。
 
 きんぎょは決して食用になってこなかったのも不思議なことです。どこまでも愛玩用の生き物というのがきんぎょで、私は室生犀星の「蜜のあわれ」を読んでから、どうも小さいときからいつも母が玄関で飼っていた懐かしい赤い琉金を思い出すと、なんだか「あたい」と話しかけてくるかのような気がしてしまいます。
 
 私が2歳の頃着ていたきんぎょのゆかたも、赤い琉金でした。琉金は、中国から琉球を経て日本にもたらされたきんぎょだそうです。
 
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 まだ一度も着たことのない、出目金柄のゆかた。
 
 以前、赤ちゃんの出目金をきんぎょすくいで手に入れ、市販の餌さえも大きすぎて口に入らないので小さく割って食べさせて、大きく育てたのですが、引越しの際、車酔いをしたのか、数日後亡くなりました。
 
 とても長い期間育てたので、出目金にも愛着があります。山本寛斉のゆかたです。でも、出目金というのはなんとなく着づらくて、まだ一度もきていないのです。